『できるかな』
西原理恵子
扶桑社,1998年。
その時まで、僕は西原理恵子の本性を知らなかったわけだ。「はれた日は学校をやすんで」も、そして「ぼくんち」も知人の購読誌を横から見て知っていた。どちらにも僕の知らない世界があって、けれどそういう世界を描く西原からはどこか暖かみが感じられて、僕は好きだった。人生の悲しみを知ってる人だと思ったものだから。
けれども、それは一面に過ぎなかった。
「できるかな」は第一回目から飛ばしている。ガイガー計を持って事故を起こしたもんじゅを見学するという企画に、事実くらくらしたものだ。この無茶な勢いはその後も続き、どう考えても行き当たりばったりとしか思えない企画のオンパレード。
なかでもタイ生活記は無茶てんこ盛りだ。「今日の死体」だのおかまだの印僑だの。当時タイの学生とメール交換をしていた僕は、タイ生活記にひとこと触れられていた「水かけ祭り」で一時期盛り上がったものの、それ以外はあぶなくてどうしても話題に出来なかった。それほどの過激さを持っている。
タイ生活記の白黒をつけたかった僕は、やっぱり過激に岸和田だんじりを描いた一編を試金石とすることに。大阪の祭に詳しい大学の先生に見てもらった。
「ここまで酷くはないけど、完全に嘘ではないなあ」
そうか、事実なのか……
事実の上に塗り重ねる過激さ。西原はなぜこうも突き放したように描くのだろう。人を敗者と罵り、自暴自棄に突っ走る様相は自虐的であまりにも乱暴だ。他人に対してもそうなら、身内や自分に対しても容赦はない。だがこの罵詈雑言を読み進めていくと、頭が精一杯にかき回されて、見えなかったものが見えてくる。
すべては傷つきやすい自分を守るためだった。自分の好きなものを貶めることにより、屈折した愛を叫んでいる。愛しいものにこそラジカルに運ぶ筆、その先に純粋な彼女がにじんで見える。
この本に会って、僕はさらに西原が好きになった。彼女は人生の悲しさを知っている。
評価:4
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