『ドラえもん』全四十五巻
藤子不二雄(藤子・F・不二雄)
(てんとう虫コミックス)小学館,1974- 年。
ドラえもんとの出会いは今もなお憶えている。父のもらってきた第十六巻が、僕の初めてのドラえもんとの、ひいては漫画との出会いであった。僕はまだ幼稚園に通っていたころ。漫画という表現形式を知らなかった僕は、憑かれたかのようにドラえもんにのめり込んでいった。
ドラえもんのアニメが始まったのもちょうどこのころだった。ドラえもんを中心に僕の興味は動き、母が言うには、言葉と知識をドラえもんから急速に吸収していったという話だ。
初期ドラえもんに通奏低音のごとく流れている、純粋なる科学の進歩への憧れ、超科学が開く未知の世界のまぶしさ、科学では割り切れない不思議、謎への好奇心。これらが当時少年だったものたちの心に、どれほどまでに働き掛けえただろうか。二度の石油危機に見舞われ決して好調な時代とは言えなかった七八十年代。しかし、ドラえもんに触れのび太たちと時代をともにした僕達の見る未来は、決して暗いものではなかった。むしろ燦然と輝く未来を信じる時代の雰囲気がそこにあった。
しかしドラえもんの魔力は、八十年代も折り返しに入ろうとするころから陰りを見せはじめた。かつては無限の世界を見せたドラえもんが、閉じられた世界の住人に堕してしまった。それは果たして、歳をとってしまった僕らのせいだったろうか。
僕はあえて違うと言いたい。ドラえもんは後期に入り、急速にマンネリの度合いを強め、起こりうる事件は矮小な過去の焼き直しに過ぎなくなった。それは多分に、人気に座して新たな可能性を見出せなくなった作者を含む僕たちの怠慢と、ドラえもんの存在が儲けを産む商品として読み替えられたことによるのだろう。
社会に浸透することの代償にドラえもんは空を飛ぶ翼――タケコプターというべきか――を失ってしまったのだ。
僕は初期中期のドラえもんを最高傑作と評して恥じない。それゆえ、彼らの時間を止めんとして、あえて最終巻は手にせずにいる。
評点:4-2-
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