『飛ぶ教室』
エーリッヒ・ケストナー(山口四郎訳)
講談社文庫,1983年。
友情や正義というものを信じていた時代は、きっと誰にもあったはず。仲間たちとつるんで、ときにはいたずら、悪いこともしながら、自分たちの正義、友情を縦糸に過ごしたギャングエイジの思い出は、振り返るごとに懐かしさとともにある種の恥じらいと、遠く離れてしまった身の哀しみをしんしんと思い起こさせます。
ケストナーの著作、「飛ぶ教室」はそんなギャングエイジを生きる少年たちを活き活きと動かした、児童文学の傑作です。五人が五人ともに個性的で、それぞれに悩みを持ちながら自分自身の枠を越えようともがいたりする様は、動機からその手段に至るまで実に素朴で、やはり少し古い時代のものだと言わずにはおられません。ですが、その素朴さこそが、今の時代、ともすれば表面的な華美、照れからの逆説によって覆い隠されてしまっている、皆々の求めたいと願っているもののいわば本質であるかのようです。
素直さが野暮といわれ、友情やなんかは暑苦しく、正義なんかは空々しく響くのが時代の空気であっても、少年時代の仲間内ではその古くさくさえ感じる言葉が、照れ隠しの雑言の中に見え隠れしています。時代は変わり、児童文学が児童の手から離れてしまったかのように見える今でも、少年たちの手にする漫画、アニメの中には、ケストナーの描いた少年たちの言葉が、かたちを変えて息づいています。
物語中にあらわれる教師や大人との関係は、今となってはあまりにもユートピア的に、あり得ないことのように映ります。また背景や少年たちの心中に起こる感情も、あまりに描かれすぎていて、今や子どもが見ても子供っぽいと思うかも知れないほどです。ですが、いつの時代の誰もが求めるものがしっかりと存在するがゆえに、このようなユートピア的素朴さを夢見てもいいのではないかと思ってしまうのです。すっかり錆び、すさんでしまった僕にさえ、読みさえすれば夢垣間見させるなにかを持っているのです。
評点:3
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