『山原バンバン』
大城ゆか
ボーダーインク,1994年。
山原と書いて「やんばる」、タイトルは「やんばらばんばん」と読むらしい。このあたりは、ヤマトゥンチューにはわからない。まったくもって、ヤンバルーの世界が広がっている。
けれど山原での生活には、ヤマトゥンチューでありながらも強く引かれてしまう。主人公夏美の思うところに共感するのは、古さの残る社会と新しい価値のはざまで生きたという、遠く離れながらも同じくあった世代のためなのだろう。けれど僕の高校の頃は、もう都市のリズムに飲み込まれいて、夏美たちの生活に見えるのんびりさみたいなのはなかった。その夏美らのテンポが心地よい。
彼女らの世界には、まだおばーおじーがいて、おばーの誕生日を祝って一族郎党集まって宴会したりする、昔からの家のつながりが残っている。都会では核家族化の風が吹き、失われてしまった光景。けれどこの古い社会形態を嫌っているのもまた夏美や、妹の次美なのだ。沖縄の、どこぞの島の彼女らも、同じ都市化の流れに乗っかっているのかと思うとちょっと寂しい。
だが、この漫画に生きる心は、核家族化し都市化しようとする向きに対する疑いだろう。冒頭、山原森の伐採を見て腹を立てる夏美の話は、蘇ろうとする山原森を思い、山自然に住む妖怪、キジムナーと出会うところで終わる。キジムナーは、山原の彼女らに伝えられてきた、血であり自然であり、ヤンバルーの誇りに違いない。ヤンバルーであり続けるからこそ、三線のエイサーに古くさいと思いながらも、うふそー顔さらして楽しんでしまったり、文句を言いながらも、連れていかれた闘牛に興奮してしまう。
夏美の生活は遠くて、ヤマトの僕にはエキゾチックな楽園にしか見えない。けれど住めばこそうっとうしくて七面倒臭く思うなにかもあるのだろう。けど、夏美がおばーになる頃にも、山原の森があってほしいと思うし、面倒ななんかも残ってるといいなと、それらを失った身として思わずにはいられない。
評点:4
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