『夕凪の街
桜の国』
こうの史代
双葉社,2004年。
玉石混交の私の蔵書においてこの物語は間違いなく玉である。出版されないと思っていたこの物語がこうして出版されたことで、多くの人が手に取ることができるようになった。まことに幸いなことである。私は、この物語が多くの人の目に触れ、読まれることを望んでいる。
広島に落とされた原爆をめぐる物語である。直接に被爆した皆実を主人公とする物語が夕凪の街、皆実の弟と子らの物語が桜の国、――数十年の時を隔てるふたつの物語は、原爆という事象が人の心に落としてきた影、わだかまりつつ悲しい感情によってつながれている。
いうまでもなく被爆者たちは被害者であるが、その彼らがあたかもなにか罪を犯したものであるかのように遠ざけられるという事実があった。後年発症する原爆症により命を奪われる人たちがいる。そして後障害のあるというこのことが、二世あるいは三世を疎外する要因となってしまった。放射能による後遺症と偏見が彼らを、直接にあるいは間接に苦しめている。自らの健康への不安に加え冷ややかな視線も受けねばならず、その長く後を引いて延びる影は、悲しいかなおそらく今も消えずにあるのだろう。だがこの物語はすべてを受けて飛翔する強さを見せる。優しさが深いうねりになって押し寄せてくる。あんなに描写は静かであるのに。
原爆はもう過去のことになってしまったのかも知れない、というのは解説に原爆症が後年発症することがあったと書かれているのに驚いたからで、このことは常識のように皆に知られていると思い込んでいた。少なくとも日本人なら当然のように知っていると思っていた。こうした注釈が必要になるほど、原爆やそれにまつわる事々は過去に追いやられているのかと愕然とした。
だからこの本は人に読まれるべく出版されたのだと思ったのだった。埋もれてよい本ではなく、それは原爆についても同じである。忘れてはならないものもある。知っておくべきこともあるのだ。
評点:5
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