これこそ自分が探してものだ。このケーブルを見つけたときの感想とは、まさにこうだったのでした。エポックメイキングという語が、これほど相応しいと思った製品も、なかなかあるものではありません。
以前は一家に一台あるかどうかといったコンピュータでしたが、最近では複数台ある過程も家庭も少なくなくなってきたと聞きます。加えて、ADSLなどのインターネット高速接続環境もずいぶん安価になり、ルータを介して家庭内で小さなネットワークを築いている人も、身の回りに少なからず見られるようになりました。現在のネットワークの主流はイーサネット、それも100BASE-TXやなんかになると思われますが、このケーブルがちょっと家の中に這わせるには太すぎる。部屋や廊下を突っ切らせるにはあまりに邪魔だし、なにより扉の下を通らない。
こういう不満を持っている人はきっと多く、そしてELECOMというメーカーはこの需要に応えようとしたのでしょう。実に多様なケーブルがリリースされているようです。薄っぺらいものから細くしなやかなもの、もちろん普通のものまで多様なラインナップの中から選べるのは嬉しいかぎりではありませんか。
で、問題の「スーパーフラット イーサネットケーブル」。これはちょっと凄い、感動ものの薄さです。製品番号はLD-CTFS、色は黒と青の二色用意されていて、長さは1, 2, 3, 5, 7, 10, 15mと結構豊富に取りそろえられています。薄さがたたってカテゴリー5どまり(1000BASEに発展できない)ですが、家庭内LANならなんら問題ないでしょう。なにしろ幅8mm、厚さ1m程度というその思いきった薄さが、このケーブルをちょっと他にはないものにしています。ちょっと高い値段も、その特徴を考えればなんら問題ありません。
僕が購入したのは、10mの黒。廊下にあるTAからリビングのPS2、iBookに繋げるために利用しています。今は冬なので、ケーブルを這わせたまま扉をしっかり閉じられるのは非常に嬉しいかぎり。買ってよかったと、心から思える商品にめぐりあえたことを、感謝しています。
ただ、さらに贅沢をいうなら、その扁平な形状のために曲げにくいという問題があるんです。結構固いんですよね。扉を通した後、壁に沿わせて曲げるには、ちょっと工夫が必要そうです。
でも、僕はこの製品に非常に満足。もう一本買ってリビングの敷物の下を這わせようかな、なんて思っています。
いや、K-1だけに限らないんですが、自分は格闘技というものが結構好きです。なのでプロレスも観ますし、PRIDEも観たりします。わざわざ会場まで足を運んで、というほどでもないのですが、それでもテレビで放送されると知るやとりあえず観ると決めてしまう。それくらいの好きです。人は意外に思うようですが……
格闘技の魅力というのは、人間の可能性のひとつの表れであると思うからです。普段生活のなかで使われる人間の機能というのは、ごく一部に過ぎません。ですが、身ひとつで勝ち上がろうとする格闘技においては、文字通り死力を振り絞り、機能性の限界までが叩きだされてくる。それが、なににもましての魅力といえるでしょう。
この人間の可能性というのは、例えば演奏でも学問においてでも、もちろん垣間見ることが出来るものです。ですがなかでも格闘技において表現されるものは、よりプリミティブでわかりやすいという単純明瞭さがあって、いらちな僕には向いているように思う。その表現のあまりの直截さに、顔をしかめる人も多いことはわかっています。けど、人間はエレガントなだけではないですからね。次々と叩きだされる力と技の応酬に惹かれるのは、ある意味当然であると思うのですよ。
さて、今年はマーク・ハントでした。彼はいつもいつも面白く、愛嬌もまたあるので、人気が出そうですね。今後にちょっと期待、です。
伊藤園の「おーいお茶」、今ペットボトルで買うとスタンプがついてきます。小さな「おーいお茶」ペットボトルがあまりに可愛かったので、ホットビタミンCを買うつもりが、ついつい「おーいお茶」に手を伸ばしてしまった。それも何度も。スタンプがどんどんたまっていきます。
スタンプは全部で三十種類あるのだそうで、猫顔あり予定あり天気あり重要印ありと、ファンシーなものから実用のものまで幅広いラインナップはちょっと魅力的。ついつい集めてしまいたくなるという、危険性を秘めたアイテムです。
ところで、かたちはどれも同じ「おーいお茶」ペットボトル。ということは、見た目でなんのスタンプか区別がつかない。いや、そんなもんなんだけれども、けど機能的ではないよね。
友人の着ていた深い緑のコートがとてつもなく可愛かったので、今日はそのコートのこと一色だったのです。
ロングコートの裾から紺黒のロングのプリーツスカートが見えて、その可愛さは腹立たしいほどだった。うん、思い出すだに腹立たしげ。コートにかかる薄茶のマフラーも際立っていて、嫌いなはずのロングブーツさえ許容できるほど。ルイヴィトンのバッグも、このスタイルにはとても合っていて、非の打ち所はまったく無し。こういうのは駄目ですね、うんいけません。
あまりにコートを褒めるものだから、かどうかはわからないのだけども、ちょっと袖を通させてもらえることになりまして。着てみれば袖丈やなんかは少々短めだけど、結構身には合った感じの好感触が嬉しい。さすがに肩の辺りの窮屈さが気になるものの、こういうコートが欲しいなあと思わせるには充分でした。
考えれば、こういったコートって持ってないんだな。買おっかな、と物欲が刺激されてしまうところもまたいけない。でも、やっぱり欲しいんだな。欲しいものは欲しいときに買う? 買わない? ちょっと悩んでいます。
このところぐっと冷え込んできて、寒さが身にしみるようになってきました。日毎に冷え込みは厳しくなり、伝統的に暖房を効かさないうちでは、どの部屋も寒くてかなしい気分になってきます。早々に袢纏を出してはいますが、それでも寒さはかわせない。となれば、布団、布団です。布団を部屋に持ち込むのです。
部屋に持ち込む布団は、あまりに大きなものだとかさばって邪魔になります。薄いものだと邪魔にはならないものの、あまり温かくなくてちょっと物足りない。そんなわけで、中布団を用意しておくのが良いです。適当に軽くて適当に温かいものを、座っているときはひざ掛けに、立ち歩くときは体にぐるぐると巻いて、お引きずりさんよろしくうろうろするのが、うちでの冬の風物詩になっています(というか、僕だけか?)。
布団くるまり歩きにはもうひとつ利点があります。夜寝ようというときに布団が冷えきっていると、すぐには寝つけないもの。ところが、くるまり歩きをしていた布団を掛け布団の一枚目にすれば、いきなり温かく寝られます(ずっとくるまってたんだから、当たり前だ)。
これはいい感じ。皆さんも一度試してみてください。
だんだんと朝夕が肌寒くなってきて、ついにポットが本格稼働に入りました。水を入れておくと、自動的に沸かして保温してくれるという、それです。夏でも熱いお茶を飲みたい僕にとっては、このポットはかかせないアイテムなのですが、家族が僕ほどにお湯を必要とはしていないために、夏の間は使われていないのです。
湯というものは、一人分くらいのものだったら、それこそたいした時間もなく沸きますが、僕はその手間すら惜しむものぐさものです。お茶飲みたいなと思い、ポットを見れば沈黙しているという状況。やかんに水を入れて火にかける手間自体はたいしたことではないけれど、その湯が沸くまでが待ちきれず、別のことをしてついつい沸き上がらせてしまう。そんな僕にとって自動湯沸かし保温ポットは、好きなときに気軽にお湯を利用でき、沸き上がらせる危険もないという、文明の利器、すぐれものなのです。
中国みたいに、朝に湯を沸かして魔法瓶に詰めておくのも悪くはないでしょうけれども、やはり使えるのなら自動湯沸かし保温ポットがいい、です。ただ、水を足し忘れていると、せっかくの便利さも台無しなんですけれどもさ。
秋の味覚といえば、海のものに山のものと、それこそ多岐にわたっているけれども、なにが好きかと問われれば、きっと秋刀魚と答えるでしょう。他にはなにも考えられないほど、秋刀魚が好きです。
秋刀魚のほっそりとした身に脂のしっかりとのって、じゅうじゅうと音を立てて焼けて出てくると、もう秋なのだと嬉しくなってくる。香ばしく濃厚な匂いは強烈で、矢も盾もたまらず食卓に駆けつけさせる。視覚、聴覚、嗅覚、触覚そして味覚と、五感を総動員させて食べるものが秋刀魚です。
昔、水産関係の仕事をしていたとき、秋は最高に仕合せな季節でした。箱一杯に詰められた秋刀魚が、売り切れないほどの量で冷蔵庫に納まっている。それこそ、一尾十円とかの値段で売るのですが、それでも捌けないほどの量があったのです。
このままでは腐らせるばかりです。腐らせても仕方がないので、焼いて食べようとことになります。業務用の魚焼きで片っ端から秋刀魚を焼いて配っていく。これはもう、何尾食べてもいいわけですから、こんなに嬉しいことはなかった。焼き立ての秋刀魚の頭と尾を両手でもって、ハーモニカを吹くように横から食べていく。身も内臓も一緒くたに食べる秋刀魚は、複雑に苦味と旨味を混じりあわせて、こんなに旨いものがあるのかと、ほとほと嘆息させるほどでした。
後にも先にも、あんなに秋刀魚を食べたことはなかった。けど、食べ飽きることもなくって。ああ、また食べたくなってきました。
先達て知人と食事にいった際、彼がデザートにライチを食べたいといったのだった。ライチといえば『飛べ!イサミ』を思いだすねといったら、本当にNHK、好きですねといわれてしまった。そう、そのとおり。NHK、大好きです。
どちらかといえば地味なNHK。権威主義、教条主義的なものから脱して、面白さは極まった。民放も見ないわけではないが、とりあえずNHKさえあれば仕合せ。しかもNHKは、日本全国どこに行っても見ることができるところがいい。
いつごろからだったろうか、見る番組の多くをNHKが占めるようになっていった。ニュースもそうなら他の番組に関してもそうだ。好きなアニメはと問われれば『ヤダモン』と応えるだろうし、一時期暇だったころの夕方には、NHK教育ばかり何時間も見ていた。
意外とNHK教育には名番組が多い。初期の『天才テレビくん』も『いないいないばあ』も、まだ固まりきらない勢いがあって最高に面白かった。『ハッチポッチステーション』はいつまでたっても面白いままだし、一世を風靡した『ひとりでできるもん』ももちろん教育の名番組だ。小中学校の時なんかは、病欠のたびに一日中教育を見ていた。目当ては『いちにのさんすう』だった。タップが好きだったのだ。
アニメやなんかといった番組を見なくなってしまった今、見るものの中心はNHK語学やNHKスペシャルといったところに落ち着いた。『将棋講座』や『囲碁講座』も面白い。ほっとけばだらだらと、いくらでも見てしまうNHKなのだ。
看護婦さんといっても、別に白衣が好きだとかそういうことじゃないです。看護士や医者という存在がというよりも、病院やそこでおこなわれる治療行為というものに興味があるといったほうが正しいでしょう。そう、僕は病院が好きでした。
最近、病院を舞台にした漫画にはまっています。それは月刊の漫画誌に連載されている四コマ漫画で、実際に病院や医師、看護士に取材したうえで描かれているのでしょう。病院で起こりえそうなエピソードをおもしろさを交えて紹介しつつも、ひとつのテーマで一回分をまとめるという、上っ面だけではない充実が気に入っています。
しかし、はじめはこの作者を気に入っているのだと思っていました。同じ作者の派遣社員ものの四コマもおもしろくて、もちろん単行本も買って持っていますが、両方を読み合わせてやはり病院もののほうがおもしろいと思うのでした。病院ものが派遣社員ものに比べ質で優っているからではありません。どちらも好きなのは同じなのです。
では、なぜ病院ものに引かれるのか。自室の書棚を見て、なんとなく理由に行き当たりました。病院を舞台にした漫画がひとかたまりにして並んでいたのです。忘れていたわけじゃないんですが、また特に集めようとして集めたわけでもないのですが、よっぽど病院が好きなんでしょうね。
外科医、精神科医、研修医、看護婦などなど。新たな自分を思わず発見してしまったのでした。
眠れない夜には、ハーブティがいい。
昔は一部の好事家のものと思われていたハーブですが、最近では様々な場で目にすること、実際に口にすることも増えてきて、一般に親しまれるようになってきたのではないでしょうか。はじめて飲んだときには、歯磨き粉やなにかを飲んでいるような感じで、どうも馴染めなかったりするのですが、なれれば楽しんで飲めるようになるのもハーブティです。
いろいろな効用のあるハーブから、そのときどきの用途にあわせて選ぶのは楽しいもの。自分で植えてみるのもよいだろうし、自分で収穫したハーブともなれば、味わいもひとしおでしょう。
そんなハーブの中でも、寝つけない夜にはカモミールが最適です。カモミールは精神を落ち着ける効用があるので、安らいだ眠りを得ることができるのです。苦味もあって最初はあわないと思ったとしても、その本当のおいしさにさえ出会うことができれば、きっと病みつきになるだけの魅力があるのです。
眠れない夜には、ハーブティがいい。穏やかで安らいだ時間を、ゆったりと過ごしながらだとなおさらです。
メディコロ チェアをご存じだろうか。まあ、ご存じないと思う。いわゆるあんま椅子だ。電気仕掛けで背中のマッサージをしてくれる、実にありがたい椅子がうちにやって来た。
人一倍凝り性の自分は、背中も肩も凝りやすい。一日中コンピュータに向かう日などは、背中から肩からばきばきいって、容易に伸びないほどなのだ。そのせいで片頭痛もするし、疲れがたまって気力も鈍る。マッサージに行こうにも、予算の都合がそれを許さないとくれば、こういうギミック付き椅子が非常にありがたいというものだ。
適当にリクライニングさせてスイッチを入れる。マッサージのしすぎはよくないため、二十分で切れるタイマーが付いているのも気が利いている。背中を上下に往復するローラーに、腰腿ふくらはぎをマッサージするためのバイブレーションも付いている。機能過多とはいえないが必要充分の設計。効いているのかどうかわからないほどだが、きっと毎日続ければそれなりに疲れも取れそうな気もするというものだ。
風呂上がりに使えば効果的だろう。しかし、風呂は寝る間際にしか入れないくらいにやることが一杯あって、風呂上がりにこれを使えば、きっと朝までそこで寝てしまう。そんなわけで、一番効果的な使い方が出来ないのが、今一番の心残りといえようか。
でもって、次は低周波治療器が欲しい。欲しがるものが、じじいだなあ。
菱沼聖子をご存じだろうか。佐々木倫子の描く漫画『動物のお医者さん』のヒロインである。
血が止まらなかったり、体温が変温動物のそれだったり、その他人格の端々にいささか問題のある彼女だが、そのマイペースさと理解しづらい行動の数々は、非常に魅力的と感じられる。登場人物の大半が男であり、菱沼以外の女性はごくたまにしか登場してこない。そのためか、この作品における菱沼の重要度は増し、主人公ハムテルの淡々とした個性とともに、この作品のカラーを決定するほどの重要な人物である。
さて、佐々木倫子作品ではいつもそうであるが、作品のテーマに恋愛というものは存在しない。ないではないが、非常に稀薄である。しかし、そんな過酷な条件下でありながらも、菱沼に対し想いを寄せた高校生がいた。ところが菱沼は、彼が札幌オリンピックのテーマ曲『虹と雪のバラード』を歌えないことを理由に、彼の情を拒んでいる。なんということだろう。僕も、その歌は歌えない(だって生まれてなかったんだもの)。
細菌のつかみ取りが好きでとろいという印象ばかりの彼女ではあるが、意外性をあちこちにちりばめた、多面的な魅力にあふれている。そもそも彼女のもつ闊達さこそは、あらゆる魅力の中でも最高度のものではないだろうか。だらしなさそうで、いいかげんそうで、自分中心の考えをも時折垣間見せる菱沼は、本当に素晴らしい。理想そのものといってよい。
こういう人が身近にいてくれたらと思うのだけれども、本当にいたとしたら、そういうことは露ほども思わないかも知れない。それが悩みだ。
東宝のおくる怪奇映画、マタンゴ。ご存じだろうか。
遭難し孤島に流れ着いた研究者の一団。彼らがそこで出会ったのは、謎のきのこだった。食料が尽き、ついに彼らはそのきのこを口にしてしまう。しかし、それはきのこではなかった。人間に寄生する、未知の生命。意識をのっとられ、きのこに操られる教え子達に心を痛めながらも、必死に逃げおおせた主人公は――
よく出来た話だったと思います。昔し深夜に放送されていたこれを見て、映像に取りつかれてしまいました。今のSFX時代から振り返れば、あまりにあまりの出来かも知れませんが、それでも孤島の雰囲気、忍び寄る不安、それらがないまぜになって、記憶の中に渦巻いております。
そう、ふとしたことで記憶によみがえってくるのです。きっかけはなんでもなく、ふとした日常のほつれ目から忍び寄ってくるのです。記憶は膨らみ、外へ外へと向かい、ついには口をついて漏れ出てしまい……
先生―― おいしいわ―― 先生―― 先生も食べればいいのに――
今の目でこの映画を見ると、どう思うのでしょうか。怖れながらも、それでももう一度見てみたい。そう思いながら言葉は口をつき、あたりから気味悪がられる僕なのです。
仙太郎のもなかをご存知だろうか? その名も「ご存じ最中」。京菓子を商う老舗、仙太郎の名物もなかです。
ぱりぱりさくさくとしたもなかの皮の間に、大納言の餡を挟んだ、実にオーソドックスなもなかです。しかし、その餡の量が半端じゃない。もなかの皮を押し上げて、自己主張しているほどの量なのです。しかしながら、味は非常にストイックにまとまって、甘すぎることもなくあづきの味もしっかりと。揺るぎない風合いをもって、ただただそこにあり続けます。
仙太郎の出店が、帰り道にあるのですよ。そこを通るたびに、なにかしら買って食べたくなる。同じ食べるなら、いいお茶を淹れて、ゆったりとしたぜいたくな時間を感じながら食べたい。けれど決しておすましじゃない。普段の生活の延長上にある、ささやかな楽しみなのです。
職場からの帰り道、こじんまりとしたスーパーの入り口脇に出店しているときがあって、そんなときは決まって足を止めてしまいます。扱うのはお好み焼きとたい焼き。そのたい焼きが目当てだったりするのです。
いっぴき九十円でしっぽまであんこ。人当たりのいいおっちゃんがいて、雰囲気まで最高じゃないですか。そもそも、最近は今川焼きが台頭してきてたい焼きを扱う店が少ない。そんななかで、たい焼きを買える店があるのは貴重です。
というのも、今川焼きよりたい焼きのほうが好きだから、そしてその理由というのが、たい焼きの持つ味わいの多面性です。
今川も嫌いじゃないけど、たい焼きのしっぽのまわりにはみ出て、ぱりぱりに焼けた縁の食感は今川にはありません。本体のぱりっと焼けた表面から熱くしっとりとした中身へ移る過程に加え、はみ出しのもつ対照的な歯応え。このたい焼きの二面性の妙味。これを味わいたいがために、目にすれば買ってしまう、もうこれは条件反射といってもいいでしょう。
ところで、父がいうには、昔たい焼き屋が多かったのは、あの名曲「およげ!たいやきくん」の影響だそうで、よく考えたら僕はまさにその時分に幼児期を送ったのでした。レコードもうちにあれば、昔はそれはそれはよく歌っていたそうで、今川焼きよりもたい焼きを好むのは、もしやしたら幼児期の刷り込みあってのことなのかも知れません。
もしあの曲がたいやきくんではなくて、「およげ!いまがわやきくん」だったら、僕の好みを左右する大転機になっていたことでしょう。ともあれ、件のたい焼き屋は普段は土曜日、土曜に出店できないときだけ金曜に出るのだそうで、そうなれば土曜はいつも都合が悪くなって、金曜にばかり出るようになってくれればいいのに、と虫のいいことを思ったりなんかした金曜日の帰路でした。
ポップコーンが元来好きで、時折無性に食べたくなるときがあるのだけれど、気付けばコンビニからは、普通の塩味のポップコーンが無くなっていた。サークルKにも、ローソンにも、バター醤油味はあっても塩味というのがない。アズナスにいたっては、ポップコーンの存在自体が消滅した。ポップコーン好きとしては、実に困った事態になっている。
そんなに、ポップコーンって、人気ないんだろうか。
こんな、ポップコーン下火の風潮の中で、セブンイレブンだけがかたくなに塩味のポップコーンを販売している。これに気付いたのは偶然雑誌を買いに入った時。感動に、後先も省みず一袋、購入。以来、セブンイレブンは特別なコンビニになってしまった。
関西ではセブンイレブンはむしろ少ないのだが、ぜひ最後の砦としてこれからも頑張って欲しい。というか、他のコンビニも、ポップコーン置いて下さい。
それはいつも突然訪れる。唐突に画面に現れたビデオクリップで、一点虚空を見つめる女の歌う歌は「月光」であった。
姉はひとこと、強迫的な恐ろしさを口にして退けてしまったけれど、僕にはそれでもこの歌にひかれるところがあった。とはいえ、幾度も繰り返されるリフレインに飽き飽きとして、一曲を没頭して聴き続けはできなかったのだけれど。
にもかかわらず鬼束ちひろは僕の興味の先に、様々なかたちをもって現れて、それは「月光」のリフレインであり、「眩暈」であり「edge」であり、そのどれもに表れる彼女の様態は、畳みかけて僕に迫り、結局僕は折れてしまった。
畳みかけるもの、それは彼女の純粋にありたいという願望だろうか。そもそも「月光」からが、神の子であるはずの自分が生きづらいこの世の生を歌い上げている。これがなぜ僕の心に響かないわけがあるだろうか。この世に生まれたものは、誰しも独自の生をおくる神の子であるはずなのに、世間は過酷にのしかかりその生きる権利を剥奪しようと迫る。日々、その重圧をはねのけたいと思う僕たちにとって、彼女の歌はどれほど強く響くだろうか。
アルバムに収録された「月光」は、どのバージョンともに短く切り詰められ、心の高揚するよりもはやく過ぎ去ってしまう。いずれ手にするビデオクリップはきっと長すぎて、僕はその中庸を求める心をもって鬼束ちひろに対し続けたい、ように思う。
最近うれしいことに、自分の好きな有名人が自分と同じ誕生日と気付いたりすることがあって、つまらないことなんだけど、ちょっとうれしかったりします。われながら単純。けれど、こういうことででも喜んでおかないと、なにで喜べというのでしょう。
とまれ、同じ誕生日、二題。いってみよー。
職場で集英社のWebサイトに行って、ついでに internet YOU にアクセス。YOUの作家というコンテンツがあったので、ことごとく見ていたら、なんとあの島津郷子さんが同じ誕生日と発覚。こんなにうれしいことはありません。
島津郷子さんといえば、YOU に『ナース・ステーション』を連載している人気漫画家。実は、ナース・ステーション、かなり好きです。なんというか、毎号を楽しみに楽しみにして追っています。細やかに描かれた女性たちの心理が絶妙。最近では、花咲さんがかなりのお気に入りです。最初は心を閉ざしていた花咲さんが、いろいろな出来事を経て心を開いていく様は、正直ほうっておけません。今号(2001 No.6 3月15日号)は、本当に心から揺り動かされました。
これからも、花咲さんの動向は、主役である中山さんも含めてですが、目を離せません。花咲さんが、ぜひ花咲さんとして自分を肯定して、仕合せになって欲しいと、本当に、本当に思うのです。
というか、趣旨かわってるし。今回は花咲さんをうんぬんではなくて、島津郷子さんが同じ誕生日、という話です。
名前だけは知っていたけど、よくは知らなかったビョーク。けれど、先達て見た映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で直撃を受けて落ち、すっかりファンになってしまっています。で、遅ればせながらサントラを買ってきたりして、聴き浸りながら深く息をしたりしていたのです。
で、ライナーなんか見たりして、プロフィールなんか見たりして、そしたらおんなじ誕生日。感動。
というわけで、こんな些細な符号の一致することをもって、勝手に親近感を増させながら、より一層深く彼女の音楽の世界に踏み入れていきたい。帰ってこれなくてもいい、彼女の世界に深く沈み込みたい、吸う息もすべて、彼女の歌、音楽でありたい。
そう思うほど。誕生日の符合も、縁のひとつとして数え上げてしまいましょう。
世間で八ッ橋といえば生八ッ橋が有名ですが、食べておいしいのは断然八ッ橋。固く焼きしめられた短冊様の、昔ながらの八ッ橋です。
生八ッ橋のべろべろとしてするする食べられる味わいも悪くはないけれど、いかんせんその実態のなさが頼りなく、一味にかける嫌いがあります。八ッ橋に比べ食感の重要な要素、歯触り、歯応えがないためです。
口にするまでは、あくまでほのかに香りするだけの肉桂が、噛み砕かれた瞬間、はじけて広がります。焼かれて生じた香ばしさと、肉桂の清清しい芳香が交ざり、抜ける。この香りの強靱さと食感との融合は、生八ッ橋にはないものです。
固くそこにとどまり続けようという存在の、自らの様態を捨て新たに昇華していく様は、矛盾を乗り越え遥かな位置を射る跳躍力です。伝統に沈み、なお今も在り続ける、時間と距離に集約されたエネルギーが、静かに秘められているかに感じられる、そんな銘菓が八ッ橋です。
さて、その八ッ橋。なんといってもおすすめは折れ八ッ橋です。折れ八ッ橋とは、欠けや瑕疵があるため進物に使えないものを袋詰めにして安く売られている、買得感満点の八ッ橋です。瑕疵があるとはいえ、素人目にはどこがどう悪かったのかわからないようなものもあり、それほどの質の高い菓子が、一袋数百円で買えるのです。
正札の半額近く、正札出せば倍食べられる。これはもう、八ッ橋の極楽です。