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『グレン・グールド』
――極めて個人的な音楽――
- 序
- 録音可能時代の到来
- 楽譜の役割の変化
- 音楽の構造を記した設計図としての楽譜から、録音での所作、行動を指示するキューシートとしての楽譜
- 録音可能となったことによって得られたこと
- レコードの完全主義者に対する魅力
- コンサート体験(一回性の音楽)では不可能な、すべての音を聴き、把握することの可能性
- 音楽の所有可能になったことと、その結果同時に生じたコレクション可能性
- 完璧な演奏の想像
- やり直しが可能となったことにより、レコードに完璧な演奏を残しうる可能性
- テープの継ぎはぎ、編集
- 単なる誤り修正としての継ぎはぎ
- 解釈の異なる複数のテイクを継ぎはぎすることによって生まれる新しい演奏
- G. G. のいう「創造的だまかし」
- 録音可能なレパートリーと演奏解釈の多様化
- 録音が可能となったことから、音楽から一回性の要素が(少なくともレコードにおいて)薄れたこと
- G. G. の見解:「(コンサートによって)物すごい保守主義がコンサート演奏家を引続き管理している――演奏家はもしベートーヴェンの三番がたまたま自分のお得意だったら、ベートーヴェンの四番を試してみるのがこわくなる。」
- G. G. の言いたいことは、コンサートから解放されたならば、コンサートで演奏するために常に練習し続けなければならない十八番はなくなり、一度録音するたびにその曲を忘れ、次の曲へと移っていくことが可能になるということ。
- 録音可能なレパートリーの増加
- レコードにより新たに与えられる演奏者の利益
- 演奏による音楽の再創造性のクローズアップ
- もしレコードがある作品の決定版となるならば、作曲者による自作自演、あるいは作曲者の指示により演奏、録音されたものが定番となり、それにそわない演奏の意味は(作曲者の意図を再現することを目的とする限り)弱まらざるを得ない。
- しかしこの、定番の解釈を手本とする、同じような音楽が量産される無意味さを避けるものとしての、過去に演奏されなかったような演奏の試み
- 演奏解釈の多様化
- G. G. のエキセントリックといわれた演奏の根本的理由か
- 聴衆主導の時代
- 聴取者に与えられた新しい権利
- 聴者一人一人に判断による音の操作
- 簡単なところでは音量の調整
- G. G. の例:「デレンとした、手に負えない低音指向のスタジオ・ピアノで」録音した音楽をラジオ放送で聴くとき、自分のプレイヤーのトーンコントロールを用い「低音を百サイクルあたりでカットし、高音を約五千サイクルまで増幅してみたところ、そのピアノが魔法にかかったようにすっかり様変わりしたことを発見した。」
- 和田則彦の例:マトリックス方式4チャンネル化シンセサイザー・アンプ「2チャンネル・ステレオに含まれる音たちの位相分析を行い、逆相成分をリア(後方)チャンネルにレイアウトすることによって4チャンネル信号に組み替えるこの装置がもたらす「音まみれ」体験の楽しさは、実際にエンジョイしたものでないと解らない。」
- 大量のレコードの中から、自分の好みの演奏を取捨選択することの自由
- 渡辺裕のいう「カタログ化」にかなり近い考え
- II. 3. での多様化するレコード群からの自由な選択可能性
- 「キットとしての音楽」
- 上記1., 2. を統合する考えとして、G. G. の「キットとしての音楽」があるのではないか
- G. G. の見解:「様々な奏者による様々な解釈の演奏の部分を、それぞれをキットとし組み合わせ、編集する自由を聴き手に与えたい」
- G. G. のいう「創造的聴き手(リスナー)」
- より広範な個人、聴衆も含めた個人のものとなった音楽
- G. G. の見解:テクノロジーによって「新種の聴き手――音楽体験に従来よりもっと関わりを持つ聴き手が」出現し彼らは「もはや受け身の分析者でなく、仲間うち」であり、「音楽芸術の将来は、こうした聴き手の今まで以上の全面的参加を待っている。」
- アドルノの言う音楽の個人化
- 音楽が「演奏家のもの」ということ
- アドルノによれば、テクノロジーによって量産されるレコードによって、聴取レベルは低下した。
- (上記のアドルノの見解に対し)G. G. は、かつては作曲家、演奏家によって所有され聴衆はそれらを仰ぎ見るしか無かった音楽が、今やテクノロジーの功績により、音楽は作曲家、演奏家、聴取者のすべてに開かれたものとなる。
- 楽観的テクノロジー論
- テクノロジーによって音楽が量産されるようになった結果、膨らむ音楽聴取層
- 音楽聴取層が増加することによって生じる、多様な音楽の聴き方の出現
- それはBGMであったり、表層的なものであったり。音楽が、音楽というそれ自体が社会に働きかけるのではなく、パッケージ化された商品となってしまったことから、社会的意味(音楽と社会の相互の働きかけ)は弱まり、音楽の聴取はなおさら個人的体験の色合いを強めていくのではないか。
- 音楽の自分勝手な聴き方
- 中心となる権威の喪失
- それは音楽聴におけるマナーであり、曲の正統的解釈であり、大向こうを唸らせるヴィルトゥオーソであったり。
- でも権威を嫌っていたG. G. 自体は、G. G. ファンによって祭り上げられたりして、一つの権威になってしまっていたりする矛盾
- G. G. 自身が持っていた、権威的側面
- 決してG. G. の思うとおりには動いてない現実
- コンサートもなくなりそうにないし
- 結論
- G. G. の望んだ音楽状況の在り方は、テクノロジーが音楽の生産、聴取に深く関わることによって音楽が多様化し、それらが所有可能、自由に私的操作することが可能になることから、極めて個人的な方向へ進んでいったところにある、極めて個人的な音楽、だったのではないだろうか。
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