修士論文序文初期形2

 本来何かを作り出すという行為は、個人のものではなかった。といえば語弊があるが、現在我々が当然のように考えている、ある音楽作品にはその楽曲を作った作曲家がいるという作品と作者の関係は、古代原始においては当然なかった。というのは、神話や伝説などのように語り継がれる過程において変容しつつ作り上げられる口承文学、音楽においては民謡などの伝承芸能、には特定の個人としての作者を見いだすことは不可能――無意味であることからも理解されるだろう。さらには言葉自体や音楽の体系というものも、一個人によって考案、創造されたものではなく、それらは共同社会の内部で自然、発生してきた、言い換えれば、その社会を構成する人間たちが共同することにより作り出されてきたものである。本来、何かを生み出すという行為は共同作業的性格を帯びていたのである。

 しかし冒頭でもいったとおり、現在我々は、作品とその制作者である個人が結びついているものであると考えるようになっている。例えば『イ』という交響曲は何某氏による作品であり、『ロ』という歌曲は誰某氏によるものであるという具合にである。これは、個人の独創性に価値が認められるようになり、作品を作者のものと見る、という考えが現われた以上、いわば必然的な動きであり、その、作品と作者の結び付きが個人主義的な考えと不可分である以上、民衆によって権利が獲得され、個人主義の謳われた世紀である19世紀に、よりその結び付きを強固なものとしていったのも至極当然といえるだろう。また18世紀末に旧来の王侯貴族とキリスト教会の支配する社会形態が崩壊し、よきパトロンを失った芸術家たちが、独立した個人として目覚めざるを得なくなり、さらには芸術の創作の目的が自己の表現へと変化していったことにより、芸術作品はよりその作者の個人性を強めていったことも忘れてはならない。特に作品がその作品自身の自律性を獲得してからは、作品がまず何よりも、他の音楽活動を成立させる要素――演奏や聴取――に優越するものとなった。また、19世紀を通じ付与され育まれ続けた、芸術至上主義的見方による芸術家の英雄視や巨匠イメージなども、先に述べた作品の優位性と関わり相強め合いながら、作曲家優位と作品優位の状況を作り出していく。これは作品と作者(芸術家)の結びついているという前提があってのことである。そして、まさに音楽において芸術家とは作曲家のことを指し示しているのであり、また何よりも、作品は作曲者に帰属するものであると捉えられるようにまで至るのであった。1

 作品優位と作曲者の特権的性格が確立されると、作曲者による作品の拘束をはかる動きが現われてきた。後期ロマン派に属する作曲家グスタフ・マーラーは、自らも指揮者であったことから解釈次第で作品がいかようにも演奏され得ることをよく承知していた。そのため彼は、指揮者、演奏家の解釈のいかんにより作品が自身の求める形から逸脱することを恐れ、演奏に際しての指示を細かに楽譜に書き込んでいる。演奏家にはあくまでも、作曲家により作られた作品を、作曲家の意図に忠実に再現することが求められているのである。この傾向は20世紀に入り電子機器が導入されて以来より顕著になる。録音技術やシンセサイザー、コンピュータの導入により音楽の要素を思うままに制御できるようになると、作曲家はこれらの電子機器を用いての制作に乗り出した。作曲家により高度に制御された音楽が鳴り響くそこでは、作曲家の意図から外れた要素は締め出されている。作品はもはや演奏家あるいは演奏を介する必要なしに、鳴り響くことができるのである。ここでは作曲家の意図が何よりもまず反映され、重要視される。これこそ、作曲家、作品を、演奏家、聴衆を含む音楽活動における階層の最高位とする考えにより行き着くところの、決着である。

 この様な、作曲家の意図のもとに高度に制御される音楽の反動として現われたものが、偶然性の音楽、不確定性の音楽といわれる、チャールズ・アイヴズやヘンリー・カウエルに端を発しジョン・ケージ等によって探求された一連の音楽活動である2。この偶然性の音楽は、あまりに厳密に規定されすぎた19世紀末から20世紀初頭にかけての音楽に欠けていた音楽本来の持つ一回性の復権として説明されることが多いが、これを演奏家や聴衆によって与えられる偶然性を採用するタイプのみに限局することにより、また異なる意味を見いだすこともできるだろう。偶然性が、さいころや易のシステムによるそれこそ人為の及ばぬ方法によって与えられるのではなく、演奏家や聴衆により与えられる場合には、その演奏家や聴衆という作曲者以外の任意性、随意性、恣意性が結果として出来上がる音楽に付与されることとなる。これらの要素は作曲者の意図により与えられた偶然性、自由であるといえども、最終的に鳴り響く作品には演奏者、聴取者という複数の個人による意図が反映されているのである。作曲者は確かにその作品の制作において大本となる枠組みや素材を提供はするものの、最終的にその作品を完成させるのは演奏者であり、また聴取者であることとなる。ここでは作曲家が演奏家や聴衆に対し上位的であるという、作曲家、作品優位の状況は消え、作品と作者との結び付きも緩やかなものとなっている。むしろ作品という土俵において、演奏家、聴衆は作曲家に対し対等であり、等価である。作品はこの作曲家、演奏家、聴衆のそれぞれの行為により完成されるのである。

 この作曲家、作品優位の状況を解体しようとする動きに、カナダ人ピアニストであるグレン・グールドによる音楽活動、思想を、同様のものとして挙げることができるだろう。

 グレン・グールドがコンサート活動から退き、録音スタジオを音楽活動の拠点に据えたことはよく知られている。グールドがコンサートを否定し録音に傾倒したのは、スタジオでの編集により彼の目指す完璧な演奏を制作しようとしたから、ではなく、実際はその逆である。作曲家、作品がまずあり、その作品を受け取った演奏者の演奏を聴衆がコンサートにて受け取る、この一方通行的な音楽活動の図式を解体しようとしたことが、彼のコンサートを否定し、録音活動に向かわせた原因である。そしてグールドは、そのスタジオでの活動の中で編集という作業を通じ、音楽制作の新たな可能性を開くことに成功した3。彼は、複数の異なる解釈に基づく演奏の録音テイクを適宜選択し、また異なる解釈による録音テイクからよい演奏の部分をより分け、その部分部分を編集により継ぎ合わせることによって、一つの録音演奏を作り出す。そして将来的に彼はその最も好ましい演奏の部分を選択し編集再構成する作業は、その演奏の聴取者に解放されるだろうとの考えをも著わしていた。この、聴取者に様々な演奏の部分を与え、聴取者自らがその部分を自由に組み合わせ自分の好む演奏を制作する、という構想には作曲家を頂点とし、下層に向かい演奏家、聴取者を置く階層、先に述べた一方通行的な図式は見いだせない。ここでは音楽活動の三つの要素、作曲、演奏、聴取を担う各行為者が対等のものと扱われ、それぞれが独自の作法に従って生産に関わっている。

 この論文では、上に述べた偶然性の音楽の一様式、そしてグレン・グールドの音楽活動及び思想に見いだされる、音楽制作における共同作業的側面について考察する。これらの活動――特に前者、は、元来の目的としては、決して今から述べようとする音楽制作における共同作業の復権を目指したものではない。しかし実際に現われているその活動のその内には、作曲家、演奏家、聴衆による共同作業を求める動きが見いだせるのである。またこの動きこそは、本来の、作るという行為に根元的に存在していた共同作業的性格への、今日的な方法による回帰であり、近代において著しく肥大化させられた作曲家、作品の優位性に対するアンチテーゼである。

 これらを明らかとするための手続きとして、「作曲家、作品優位の状況に対立する契機としての偶然性の音楽」、「グレン・グールドの音楽活動、思想に見いだせる近代的音楽観の否定と共同作業的制作の側面」、そして「近代的音楽観を解体、克服するものとしての音楽制作の共同作業的側面」について言及する三章によって本論文を構成する。


1 佐々木健一「近世美学の展望」(『講座美学第1巻』東京大学出版会,1984)及び、渡辺裕『聴衆の誕生』(春秋社,1996 (1989) )の「近代的聴衆の成立」を参照。

2 Paul Griffiths (藤江効子)「偶然性の音楽」(『ニューグローヴ世界音楽大辞典』講談社)を参照。

3 渡辺裕『聴衆の誕生』(春秋社,1996 (1989) )の「近代的聴衆の崩壊」137-146頁を参照。


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公開日:2000.08.16
最終更新日:2001.09.02
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