着メロ。携帯電話の着信音がメロディーベルになって随分となる。街に出れば、これを耳にしない日はないくらい。いつの間にか日常の音になってしまったかにさえ思えるほどだ。皆さんは、着メロ、好きですか?
僕は嫌いです。
演奏会場でも映画館でも、ここぞという場面を狙ったかのように着メロが鳴る。あれほど、開演前に電源をオフにするようアナウンスされるにも関わらず、決まっていいところで鳴るのは勘弁して欲しい。いいかげんこれが続くと、悪意や恨みでもあるのではないかと勘ぐりたくなってくる。
けれど、この着メロというのはなんなのだろうか。
携帯電話の出始めたころ、着信音は無味乾燥な電子音に過ぎず、そのバリエーションも少なかったために、いま鳴った着信音が自分宛てなのかそうでないのかが分かりにくかった。そこで、自分宛てかどうかを区別できるように着信音の種類は増えはじめ、メロディーベルの加えられたのもその一環だ。いまでは、どの機種、メーカーもこぞって着メロのバリエーションの豊富さ、同時発音数の多さを売り物にするようになって、ユーザーは自分の好きな音楽で自分の携帯を飾ることが出来る。
かくして巷には多種多様な音楽があふれるようになった、かといえば、残念ながらそうではない。誰もが自分の好きな曲として、はやりの音楽をセットするためか、着メロが聞こえると何人かが決まってあたふたする。これじゃなんの意味もないじゃないかと思うのだが、着メロが持つ、自分の好きな音楽を所有させるという機能からすれば、これは実に正しい結果だ。
そもそも着メロは聴かれるためのものではない。電話の着信を知らせるという機能からしても、鳴って早々に切られる宿命にあるのは明白だ。自分のお気に入りの曲を入れたところで、聴くのは選ぶその時と知人に自分のいれた曲を教えるときくらいのもので、たいていはワンフレーズかそこらで止められてしまう。つまり、着メロで大切なのは、自分がなんの曲をセットしたかという、その事実だけになってしまっている。
着メロは、自分はこの音楽が好きだということを、再認識するための機会としては実によく出来ている。たくさんの着メロのなかから、自分の好みの一つを選ぶという作業は、やってみると実に楽しい。けれど敵もさるもので、いったんダウンロードしてみないとその曲の出来不出来がわからないときている。僕たちは敵の術中にはまっていることをわかっていながら、ダウンロード代を支払っては、自分の携帯を自分の好みで飾る。こうして、ありきたりの既製品だった携帯電話が「わたし」の携帯に変わっていく。
着メロは「わたし」の携帯を得るためのフレーバーの一種でしかない。色とりどりのストラップとなんら変わるものではないのだ。音楽は、山とある装飾品のひとつになってしまった。
装飾品となった着メロは、「わたし」を表明するためにセットされたにも関わらず、自分の入れた曲を忘れさせてしまう。いったん手に入れてしまえば後はどうでもいいといった、このぞんざいな音への意識が、ひいては自分がどんな音を日頃発しているかということを忘れさせ、自分を取り巻く音への注意を薄れさせているとしたら、音を聴くべき場で望まれざる音を出すことに躊躇しない態度も理解できるだろう。
でも、まあいいや。音楽に無闇に貼り付けられていた箔がとれて、生活を彩るひとつの要素として、積極的に活用されているともいえるわけだから。それに、着メロが多種多様になったこと自体は、歓迎したい。無粋なミッキーマウスマーチを聴かされるのには、たいがい辟易していたことだし。
ただ願わくば、自分のいれた曲をたまにはよく聴いて欲しい。自分の身に帯びている音楽をよく知ったうえで、映画館やコンサート会場ではその電源をオフにして欲しい。でないと、音楽は無思慮に消費されるばかり。悲しい実情からは抜け出せやしない。
初出:〈ゆふらての森〉No.01(2001年)