サウンドスケープに関する小対話

きろきろこ嬢の問いかけへの応答、そして再応答

問いかけ

そうそう、こととねを検索して出てこない言葉がありました!

それは「サウンドスケープ」です。

またいつかサウンドスケープのことも書いてくださいませ〜

(きろきろこ: 2003-05-12T17:16)


応答

 サウンドスケープに関しては、自分自身が懐疑的なために書けないのです。

 サウンドスケープというものが、ある場所地域に出向いて音を採取しその場所における音の役割、音環境の意味を見つけてみたり、また音環境の構築や演出をしてみたり(インスタレーションというべきなのかな?)するものという認識は一応しております。ですが、このサウンドスケープがなしたことの次にはなにがあるのかといえば、それが非常に懐疑的なのです。

 採取しました、こういう音にはこういう役割がありました。それが分かって、じゃあ次になにを言えるのだろうかということです。果たしてサウンドスケープには応用力があるのかどうかという疑問と言い換えていいと思います。

 サウンドスケープにはあるジレンマがあります。

 例えばある音環境において、望ましくない音が存在するとします。自然の豊かな村落に、似合わない自動車の走行音がうるさいと感じる。六時になると大きな音でメロディチャイムがかかる。やっぱりこれも邪魔だと思う。

 そのような反自然的な音響はこの豊かな音環境にはふさわしくないから排除すべきだという、エコロジカルなサウンドスケープ論というのが存在します。

 ですが、その自動車走行音というのは、村落に自動車という文明の利器が入ることで開けた証であるという積極的な評価も可能です。メロディチャイムは、そのチャイムが鳴ることで村落の全員がある種の感覚を共有するよすがとなっていると考えるのももちろん妥当です。

 前者のエコロジカルな論には、(近代の)人工音=悪、自然音(そして古くからの人工音、例えば寺の鐘の音)=善、という価値判断が評価の段階ですでに入り込んでしまっており、結果出てくるものはある種のバイアスがかかったものに他なりません。

 後者のものは、「学問的中立」の立場に立つことで全ての音響を等価に評価しますが、評価はいかようにもできるものですから、すでにあるものに意味を付与する以上のことはできません。そこに論者の立場を表明するわけですが、例にあげた村落のことでいえば、音環境の変化によって村落が発展したことが分かった。寺の鐘の音は失われたが代わりの基調音としてメロディベルを認められると結論するような例が非常に多いのです。

 豊かな音環境が無粋なメロディベルによって乱され、車の走行音は不愉快といえば、じゃあ村の発展はなく昔のままだったらいいのか、そう言いうる根拠はどこにあるのかという批判が用意されています。また後者風にそれを受け容れたならば、ただ得たもの失ったものを並べただけじゃないかというそれだけに終わってしまいます。

 サウンドスケープは、その音環境を記録するという点において画期的で、またそれが最も面白く魅力ある点なのですが、それを評価しようとするときにつまづくのです。得られた結果を応用して次になにを言えるかといえば、あるものはあるがままにとしか言えないために、恣意的な方向にしか進み得ないのです。

 僕の感覚では、サウンドスケープの意味は記録するという行為にこそあるのであり、理論として積み上げることはできないというものです。それゆえにそれは学問足りえるのだろうかという疑問があるのです。

 なので僕はきろきろこさんに問いかけたいのですが、現在学問の前線にいらっしゃるあなたはサウンドスケープについてどう考えていらっしゃるのだろうかと、ご意見を伺いたいのです。あるいは、僕が匙を投げてから数年の間になんらかの発展性を見たのかどうか、ご存じならば教えていただきたいと思うのです。

 なにしろ自分は、サウンドスケープはじめ音楽学が虚学であることに疲れてしまった(虚学が悪いといいたいわけではございません)人間なので、申し訳ないけれど、よろしくお願いします(いや、別に無理にとは申しません。適当に聞き流してやってください)。

(snowdrop: 2003-05-13T02:14)


応答への応答

サウンドスケープは、現在、私が読んだ限りではまだまだ全然変わっていません。シェーファーの「自然音への回帰」という考え方はおかしいとしながらも、なぜかサウンドスケープをやっていらっしゃる方ほぼ全員が「自然音回帰」の方向へ行ってます。ごく少数の方だけが自然音も機械音も皆平等に扱おうとしてます。(私はこっちの少数派意見です。)

まだまだ今の私にはわからないのです。

でもとりあえず現段階でいえることは、サウンドスケープをしてもその土地に住んでいる人には何のメリットも無い。そしてサウンドスケープ調査をしたからと言って、別に「良い」音環境になるわけではない。その前に「良い」音環境という定義自体が曖昧で、どの環境が「良い」音環境であり、どれが「悪い」音環境なのか?ということ。「良い」音、「悪い」音という定義も曖昧で、同じ人間であっても音の感じ方はその日の気分によっても変化することなど....と書けばいっぱい問題はあります。

とりあえずサウンドスケープ調査をしてみてわかることは、一番楽しいのは「研究者」であり、利益を得るのも「研究者」だけであるということです。

サウンドスケープをしたからって別に何も変わりません。でもすごいのです、自分の感覚がやたらと鋭くなって、感受性がすごく豊かになります(自然音を聞いてると)。だからやめられなくて、はまってる研究者の人がたくさんいて、それを教育現場や音楽療法なんかに応用して使おうとしているんだと思います。

(きろきろこ: 2003-05-13T23:09)


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公開日:2003.05.26
最終更新日:2003.05.26
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