平均台の上で

 いや、平均台の上でギターを弾こうって話じゃない。その心がけ、意識の問題として平均台を持ち出しただけだ。平均台というのは、小学校にあるような低いのじゃなく、そう今まさに開催中のオリンピック、体操でみられる平均台のことだ。

シビアな意識を保つということ

 オリンピックの体操を見ていて(私は体操ファンだ)、あの平均台というのはいつ見てもはらはらする。跳馬ははらはらする暇もないし、段違い平行棒もそれほどでない。いや、実際の危険度を考えるとどちらもかなりのものだとは思うんだが、この感想の差は、そこで行われる動作を実感して捉えられるかどうかだろう。平均台は比較的想像しやすく、あの細い梁の上で跳んだり回転したり――、はらはらする。これが鉄棒やなんかになると、あまりに自分の実感からかけ離れてるから、逆に安心して見ていられるのだ。

 予選、本選と見ていくと、まれに構成が変わっていることに気付くだろう。難度を下げて確実に得点を稼ごうという場合なんかにこういう措置がとられるのだが、つまりあの人たちはぎりぎりのところで演技しているのである。細心の注意をはかりながら、一回こっきりのプレッシャーに耐えて、最大限の結果をあげている。あのシビアさは、自分も見習わなければならないと思った。

平均台の上で弾くイメージ

 平均台の上で弾くといっても、平均台に腰掛けて弾いてるだけじゃ駄目だわな。そうではなくて、平均台上での、集中力を途切れさせることが直接大事につながる、そういうシビアさを練習中にも保ち続けたいということだ。

 よくあることだが、何度も何度も間違え間違えしながら弾いて、間違えなく弾けたらオッケーというのは正しくない練習法だ。それはたまたま連続でうまくいったというだけで、次の時はどうだか分からない。間違えるかも知れない、間違えたらやり直そうという練習ではなく、間違えたら、平均台がそうであるように、大怪我すると思う気持ちで、間違えないよう練習すべきなんだろう。もし間違えても、少なくとも平均台からは落ちないようにフォローをする。実際、本番での演奏でも、止まれば大事故、止まらなければなんとかなる。そのなんとかする意識を持って、さらには間違わないという決意でもって、練習時から臨む。演奏家も、きっとそうでなければならない。

練習での効果

 平均台をイメージして練習すれば、確かに演奏は変わる。まず、無理、無茶はしなくなる。自分のできる範囲の中で、きっちりと丁寧に弾く。丁寧に弾こうという意識はしていないのに、自然そのように変わったのだ。練習から粗雑さがなくなるだけで、得られるものは格段に違ってくるだろう。

 一か八かという賭けをしなくなるので、表面的にはできることや自由さがなくなったように思える。しかし、何度もいうが、たまたま間違えないような練習では駄目だ。確実に弾けるようになって、はじめてそこに芸術性だとか音楽性だとかを加味していくことが可能になる。成功するかも知れない、けど失敗するかも知れない、音楽とはそういう無謀なアクロバットとは無縁でなくてはならない。

 きちんと丁寧に弾く癖が付いていれば、できなかったこともいずれできるようになるのだから不思議だ。結局は反復練習の中で体に技術を馴染ませていくしかないのだと分かる。雑な練習だと、雑な技術が身に付いて、その雑さが抜けなくて困るのは将来の自分だ。だから、練習でこそシビアな意識をもつようにしたい。

 なお、こういうことは昔からみんないってることで、なんの真新しさもない。だが、みんな繰り言みたいに同じことをあの手この手でいってきた背景には、この単純なことがなかなか難しいという事情がある。人間というのは、慣れるとどうしても雑になるもんだから。だからたまには自分を平均台にのせて、よいイメージを思い出すよう心がけながら練習しよう。


こととねギターサイドへ トップページに戻る

公開日:2004.08.18
最終更新日:2004.08.18
webmaster@kototone.jp
Creative Commons License
こととねは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 継承 2.1 日本)の下でライセンスされています。