まいったな、めったなことはいえない。なんのことかというと、ついこの間いったところの楽器の評価だ。楽器の許容範囲いっぱいで音だけがでかく響いている
という評価、これがとんだ早とちりであった。
AD-35の変化は急だった。楽器のなかで音が窮屈に縮こまっていると思った日から数日後、無理なく音が出るようになり延びもよくなっていることに気付いた。これは驚いた。最初はその日だけのことかとも思ったが、そうではない、翌日になっても状態は昨日と同じで、やっぱり音は変わったのである。
音は派手というよりもむしろ淡々と静かに響くといったもので、これは多分弾いてる人間のせいだと思う。ちょっと前まではどこか雑味があって、音がきちんと出きらないような不自由さがあったというのに、今やそうした束縛感はなくなって、ローポジションでは豊かに響いているし、ハイポジションでも明瞭に発音する。特にハイポジションの変化がありがたい。以前はアポヤンドで弾いて欲求不満になるようなか細い音しか出なかったのに――。
いやはや、楽器というのはわからないものだと思った。ギターみたいに天然の素材を使っているものは、特にそうなのかもしれない。いや金属製の楽器であっても長く使っている間に変化して、奏者次第で良くも悪くもなるのだから、木ならなおさらそうだということだろう。
AD-35は定価三万五千円の決していい楽器ではないはずであるが、それでもこれだけのキャパシティを持っているのだから無下にはできない。わかっていたつもりであったが、改めて私はこの楽器の実力を出し切れていないのだなあ。こうした簡単なことに気付くのが遅れるのは、独習の難しさだと思う。なにしろうまい人の音を側にいつも聞いていれば、自分が楽器を弾ききれていないことくらい嫌というほど実感できるんだからね。
しかし新しい楽器がきたらきたで考えることができてしまった。折角よくなりつつあるAD-35、弾くのをやめたら変化が止まってしまうんじゃないだろうか。ちょっともったいないと思うんだね。弾き続けるにしてもどう使い分けたものか迷うし、――ピックアップでもつけるかね。