今こそ別れめ、いざさらば

 思うところあって、@niftyを退会することにした。

 @nifty(当時はNIFTY-SERVEといった)に入会したのは1996年の春のことだから、まだ八年しか経っていないことに驚く。もっと昔に入会したものと思っていたが、つくづくネット上の時間は濃密に流れていると改めて感じ入った。八年というが、この数年はほとんどアクティブではなかったので、実質は四五年ほどのことになろうか。

 私がNIFTY-SERVEに入会した1996年は、Windows 95がリリースされ、マルチメディアが身近になった時期だった。猫も杓子もコンピュータに飛びつき、その一部がパソコン通信になだれ込んできた。パソコン通信のもっとも華やかなりし時代であり、二年ほども続いたろうか。数年後には、マルチメディアからインターネットに世間の興味が移っていって、NIFTY-SERVEも時代に取り残されるまいとインターネット接続プロバイダ化していった。この頃から、古きよきパソコン通信は衰退に向かっていったともいえる。今は昔、数年前にして往時の勢いはすでになく、古きよき時代を懐かしむ人間がわずか、頑固に生き残る電子会議室に集まり、かすかに一時を髣髴とさせるのみである。

 私は、パソコン通信はNIFTY-SERVE、インターネットはSo-netと使い分けたものだから、自然NIFTY-SERVEからは疎遠になっていった。理由は単純で、パソコン通信の衰退が理由だ。いやそれ以前に、パソコン通信ブームにより、どこの会議室も飽和したかのような時期があった。それが私の転換点だった。疲れた。文字を追うのに虚しくなって、画面の向こうに人間を感じ続けることが苦痛になった。

 パソコン通信とインターネットの最大の違いは、人間関係の濃密さ希薄さだろう。インターネットでは我々はお互いに遠くぽつんとしていて、孤独感と寂寥感をどこかに隠しながら、おっかなびっくり人に近づき、しかし決定的に距離を置いているようだ。近代以降に生まれた我々が、遅まきながらに感じる近代の孤独というやつなのかも知れない。ネットワークを離れて肌に感じる寂しさが、ネット上には露骨に寒々としている。ただそれがあからさまなだけ、人恋しさは募り、空元気みたいなはしゃぎようが寂しさを紛らわせるのだが、これが逆説的に、孤独感を際立ててしまうのだからどうも皮肉だ。

 パソコン通信の人間関係は濃密だった。自分を隠すことができなかったためか。インターネットではメールアドレスも使い捨てで、失敗があれば捨ててやり直せばいい。アドレスなどなんの手がかりにもならない。だが、パソコン通信では一意的に人を特定するIDがあった。確かにこれも捨てることができた。しかしそれは退会であり、おいそれと使える手段ではなかった(だが、それでも捨てる人もいたのだった)。我々は、閉じたネットワーク上の、管理された会議室で、IDを常にオープンに誇示して、情報を交換しあった。時にはののしりあいもしたし、傷ついた誰かがいれば慰めあったりもした。そこには匿名性を感じさせる要素は希薄で、今のインターネット上の会議室の(表面的な)無名性は影も無かった。

 そうした、ある種自己を明確に意識させられる場で、我々は楽しかった。多くの経験をし、多くを知り、たくさんの人と出会い、それは得難いことだった(もちろん同じようなことは、インターネット上にもある)。基本的に掲示板のみで構成されたNIFTY-SERVEは、ホームページのような一方向性はなく、コミュニケーションを強いる構造があった。名前(ID)があるため、書き逃げは難しく、失敗は自分で拭わねばならない厳しい場だった。だが、それゆえ誰もが寛容だった。そうした厳しい場の、優しい人たちの中で、自分はネットワーク上の新しいコミュニケーションのかたちを知ったのである。

 そのNIFTY-SERVEを去ることにしたのだった。


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公開日:2004.03.02
最終更新日:2004.03.02
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