ルチアーノ・ベリオ(1925- )に初めてであったのは、高校三年の頃であったと記憶している。当時買い集めていたサクソフォンのCDに須川展也の“Fuzzy Bird”というアルバムがあり、その五曲目に、“セクエンツァ IXb”が収録されていた。
この時、初めてベリオを聴いた印象は、ほとんど記憶に残っていない。なぜなら、初めて聴くタイプの曲である“セクエンツァ”に、おそらく拒否反応を示したのであると思われる。
当時はまだ、“スカラムーシュ”などの、聴きやすい曲を好んでいた。
“セクエンツァ”をそれこそ拒否反応や違和感なしに聴けるようになったのは、高校を卒業してからである。その頃に買った、ジャン=イブ・フルモーのCDに、同じセクエンツァが収録されていた。
その頃から夏休み――ベリオの曲を集中的に聴く以前は、論理的に、数理的に作られたような曲や、奇妙な声の曲、トロンボーンの曲を作る作曲家という印象が強かった。やはりベリオと言えばセクエンツァというイメージがあり、セクエンツァと言えば、三番の声のためのや、五番のトロンボーンのためのという、イメージがあるためである。
彼の印象をなべて言えば、前衛作曲家という、特にステレオタイプ化された前衛であったといえるだろう。
ステレオタイプ化された前衛とは、奇を衒ったような作品や、セリエリスム――ちょっとわかりにくい作品、というイメージである。ベリオの印象として、これほど打って付けのイメージはなかったのである。
しかし、今回ベリオを聴き感じたことは、彼が決して先に言ったような前衛作曲家ではない、という新しい彼に対する印象である。第一に、彼は論理や数理だけで曲を作るような作曲家ではなく、ロマンチストであるということである。
今回聴いた曲の中でも特に、声に関するもの、弦楽器に関するものは、よりロマンティックな傾向を持つように感じる。合唱作品である“コーロ”は、劇的かつロマンティックな作品であり、かなり強い印象を投げかけてくる。また、“二梃のヴァイオリンのための二重奏曲集一巻”や管楽アンサンブルのための“作品番号獣番”は、非常に短い一曲のなかに、おもしろい仕掛けが施されており、彼の作品に以前抱いていたような印象を払拭する、愛らしさというものを持っている。
セクエンツァ(残念ながら、二番と六番は聴けなかった)でさえも、すべてが同様の手法で書かれているのではなく、一つ一つに趣向が凝らされた、興味深い作品群であったのだ(そのなかでも、トロンボーンのための五番がおもしろい)。
今までベリオに対して持っていた、一面的なイメージ、それを払拭することができたことは、今回非常に有意味なことであったと思う。以前教育実習時に様々な武満作品を聴かせ、一人の人間が多様な作品を産み出すということを説明したが、ベリオについても実にそうであった。今まで一面的な見方、固定的な考えしか持っていなかった自分に対して恥じ、さらなる多様性を見いだしていきたく思う。
ベリオの妻であった、キャシー・バーベリアンの作である“Stripade”だったか(正確なタイトルは失念)は、非常におもしろかった。ああいう曲を聴くのも初めてである。