日本における写生というものは、実用主義的であったもののように思われる。すなわち、何らかの本質に近寄る手段であったというよりも、むしろその本質とはまるで異なる、より表層的な、テクニックとしてとらえられたものであったと思うのだ。
外国人フェノロサによる日本画についての評は惨憺たるものである。古来よりの日本の文化に対しては高い評価を与えているものの、新しい(徳川時代風のといわれる)日本画に対しては、「意味なき」ものと評価されているにすぎない。色使いの乏しさや、余白を多くとるという構図に対しては、相違の工夫があるとされている。さらに、風俗、すなわち庶民の生活等を描くことに対しても、浮世絵を引き合いに出し、悪いもの、または卑俗に陥るものとして批判をしている。
しかし、ここでフェノロサが何にもまして注視していることは、何にもまして、「精神上の必要」といわれる、心に適すもの、考えるところのものである。ここでいうところの考えるところのものとは、理念と理解してもよいであろうか、ともかくフェノロサが特に注視していることとして、何かを表す際に、意思、理念を表す必要があるということがいえるであろう。
しかし、そのフェノロサの理念は、日本においてそのフェノロサの考えたとおりに受け入れられはしなかった。日本において「写生」という言葉が持つ概念は、あくまでも、自然物をありのままに表すということであり、それはフェノロサの言う理念、本質とは明らかに乖離するものであった。
ここで言葉、概念の問題として、広辞苑第四版において説明される、写生に関する概念を引用する。
これを見るとわかるように、日本語において写生とは、「洋画の理論に学んだもの」としているにも関わらず、客観的態度に基づき、対象をありのままに写し取ることとしてのみとらえられていることがわかる。しかし、このことは明らかな誤解に基づくものであると考えてもよいだろう。
おそらく日本では、かつてより物事を引き写すということが重視されていたのであると考える。ある場合においては、あるひとつのフォーマットとでもいえるものに基づいて描かれ、またある場合には日本画の様式において、そのものを写し取るとされたのだろう。だが、それがフェノロサによって評価されたときに、ある一種の誤解が生じ、より日本人の写生概念は、物事をより忠実に、いうならばよりリアルに引き写すこととなってしまった。
写生概念を誤解させた原因として、フェノロサによる、当時の日本画の色使いの乏しさや、余白を多くとるという構図に対する評があると思う。ここでの評で、改良、相違の工夫が必要であるといわれているがために、その表面的に現れてくる技巧上の問題に対しての視点が強まり、フェノロサのいう理念や意思に対する考えを覆い隠してしまったのであろう。
その、誤った写生概念に基づく美術家観は、どうやら東京よりも京都において顕著であったようである。これは明治35年に大塚保治が『帝国文学』に発表した文章においてみられる、「内容、思想よりもむしろ夫を発表する形式の方に非常に重みを置いて居る。」という一文によって明確である。さらにこの文章のなかでは、描いている事象は何でも構わず、飯を炊くところや茶を飲むところなど、日常の生活の些細なつまらないことでもよいとされている。しかし、このことは明らかにフェノロサが批判した、「浮世画の悪例」的なものである。
ここで日本において用いられる「写生」概念を整理したいと思う。
日本においての写生とは、西洋においての真実、本質を表すものという本来の写生概念と乖離した、明らかに異なる別種の概念となっている。日本での写生は、あくまでも対象をありのままに引き写すことであり、またあるいはテクニックの一種としてとらえられるものであった。日本画においては、特に京都では、理念や意志を表す必要はなく、とにかく「写生」するものであった。
最後に、写生がテクニックの一種としてとらえられていたことを示す証拠として、田村月樵のエピソードを引用して、終わりとする。
田村月樵が西洋人の描く絵が持つ立体感を得ようとしたときのことである。「文久三年の初夏、桜実を写生して居る時、フト畳みに影があるのに気がついた。影でも実物に伴ふのであるから写生をせねばならぬと、之を写した。」と、このことが指している写生概念こそが、絵画技法としての写生であるといえるだろう。