客観的浮遊

 演奏中の心と体の状態には、大別して二つの種類があるように思う。そのどちらとも本質的には、自らが自らを統御する際に行う思考とそれに伴うフィードバック、ということにはなるのだが、より音楽活動に近いものと、より身体活動に近いものという、似ているようで違うものに分けられている。

 厄介なのはそのうちの後者である。これは今井自身が器楽を行っていることに関わっているものなのではあろうが、呼吸の状態やタンギング、いわばそのような音楽の内面に関わらない、より技術的なことに思考がとらわれてしまい、音楽に対してうわのそらの状態で演奏しているという状態を作り出すという点で、好まない思考であり、できうることなら排除したい思考である。それが音楽表現に直結するものであるのならばまだよいのではあるが、実際的にそれは、タンギングの際にノイズが発生するのを気にする、であるとか、発音の際にソノリテができているか、などという、より基礎的なレベルのものであり、その問題を解決するために、よりタンギングだけ、より呼吸だけという、ミクロな視点に立ち演奏することが問題なのである。

 この思考を排除する方法がないのではない。困難ではあるが存在している。それは反復活動によりそのような行為一切を、まるで脊髄反射運動であるかの様に、より無意識的に行えるよう訓練するというものである。野球の内野手が、ノック練習を繰り返すことにより、ボールを受け取るという行動から送球までを一続きの行為にする、ということと同じことである。しかし、かりに無意識的に演奏行為を行えるように(すなわち、音楽表現のみに集中できるように)訓練をし、それが達成されたとしても、常に客観性を持ったフィードバックを受け続けるということが演奏行為を行う人間には必要であり、そのフィードバックをもし行わなければ、演奏の質――今の場合では技術面での質――はしだいに低下していくため、その無意識的な演奏行為は非現実と紙一重であり、決して望ましい状態であるとは言い難いであろう。

 この様な技術面に関する身体活動一切に関わる思考は、すべて基礎的な練習時に行い、その練習に多くの時間を割けば、必然的にその訓練の結果が、(本質的に基礎的な行為の組み合わせである)音楽表現を目的とした演奏時に反映されるのではないかと考え、実際そのプランを実行してみたことが過去にあった。しかし結果は思わしくなく、逆説的に、基礎訓練時の技術と、表現活動時の技術は、異なるもの、であるということを思い知る結果となった。すなわち様々な状況を想定して行われる基礎練習で得られる技術はいわばただのパーツに過ぎず、演奏行為を行う際に必要とされるパーツは決して練習で得られるパーツをそのまま当てはめればいいというものではなく、いうならば施工時にパーツをカスタマイズする必要が生じてくるのであり、カスタマイズを行う際には、やはり自らの演奏で得られる結果をフィードバックする必要があり、そのフィードバックに基づきパーツをカスタマイズしてやる、といういわばどうどうめぐりが生ずるのである。しかもたちの悪いことに、頭の中では(理想は)かなり(自分の技術をはるかに越えて)高いため、そのどうどうめぐりは、どうどうと(下手をすれば)その演奏を発表するというその時まで繰り広げられることとなる。確かに演奏活動を考える際に、この様な行為が一番楽しく、また苦痛であるといえるのであるが、この様なパーツ作りに手間取っているような現状では音楽表現もままならず、そのことが自己嫌悪として跳ね返ってくるということにもなりかねない。

 ではかりに、そのような技術面の問題に目を背けることなくそれを回避できた場合のことを考えてみる。その時に一つの鍵となるのではないかと思われるトピックとして、以前授業において紹介された木村敏氏の著書『あいだ』の「五 合奏の構造」で語られた「演奏者間に技術の差があるときには、下手な人が上手な人に合わせるということになる」ということを取り上げる。これは優れた教師に習ったことのある生徒であるならば必ずといって経験していると思われることであるが、生徒に合わせて教師が演奏したときに、生徒は自分自身が思いもかけないような演奏を、していることに気がつくことがある。これは奇妙な浮遊感――まるで自分自身ではない誰かが演奏しているのではないかという――を伴うのだが、感覚的には、同じく木村氏による「音楽全体の鳴っている場所がまったく自然に自分以外の演奏者の場所に移って、演奏者の存在意識がこの場所に完全に吸収されるということ」と(ケースは異なるが)同じなのではないかと思われる。今例に出した場合は明らかに教師という別の(優れた)演奏者がいるために、そのように感じる、あるいは教師の演奏を自分自身のものとして(誤解に近い形で)感じているという向きもあるが、場合によっては他の演奏者が存在しない場合でもこの様な感覚におそわれる場合がある。それは、自分の過去の体験に基づくならば、二種類存在し、第一種類として、自分の存在が消え去ることにより達成される場合、第二種類として、自己が(理由不明の、普段は感じない)高揚にとらわれることにより、結果的に超自己的意識につきうごかされることにより達成される場合、である。

 この状態は、本来ならば、主観的自己――演奏を行い、かつ音楽を創造する主体としての――と、客観的自己――演奏を聴取し、かつ音楽を批判する客体としての――の、言うなれば分かたれた二つの自己、が演奏時には存在しているわけであるが、第一種類の、自己存在が消え去った浮遊は、主観的自己が消え去り客観的自己のみが生きている場合、といえ、第二種類の、高揚にとらわれた浮遊は、客観的自己が消え去り主観的自己のみにて生きる場合と、いえるのではないかと考える(以後、前者を客観的浮遊、後者を主観的浮遊と、仮称)。

 この二種類の浮遊のうち、より危険なのは主観的浮遊である。これは一般的に、自己陶酔した状態ということができ、演奏家の間で伝説的(神話的)にささやかれる、薬を使用したトリップ状態でのスーパープレイ、的な状態であるといえる。この状況下での演奏は、自らを客観的に振り返ることが決して行われないために、概してひどい、統合性を欠き、緻密でない、演奏になる。しかし演奏行為として、より能動的なのはこちらの場合であるということは間違いないと思われる。ただこの演奏はあくまでノーヘッドな状態、であるために、芸術的であるとか、音楽的であるとか、そのような演奏からは程遠いものである。

 もう一つの浮遊、客観的浮遊は、主観的浮遊に比べるとより知的であるが、無感動的、あるいは機械的演奏になる危険性を有している。以前この様な状態に陥ったときには、完全に身体が消え去り、自己がまるでその音響自身であるような感覚と、自己が思い通りにならない感覚、を同時に感じた。もしやすると、これは話にきく臨死体験――幽体離脱というもの――に近い感覚なのかもしれないとも思ったりなどするが、これはいささか自信がない。しかし体験的にはっきりしていることとして、自己が肉体から解き放たれた感覚、があり、あたかもそれは、意識のみにて生きる状態、なのである。つまりこの状態では自分が行為を行っているということを認識しないため、先に言った無感動的、機械的、な状況を生み出すことにもなりかねない。

 身体を有さない客観的浮遊は、感覚としては非常にクールな状態、クールな自己であるといえる。通常の、演奏を行っているときは、このクールな自己を自覚することによって演奏行為に客観性を持たせ、様々な突発的に起こりうる事象に対処して行くのであるが、クールな自己のみになった存在は、演奏行為を行い事象に対処する、ホットな自己、を持たないため、結果として非存在的な自己である。そのため、より自己である、ホットな自己を常に演奏中に意識しなければならないという問題が生じてくる。普段意識されることなく故に存在しないこともあるクールな自己に対し、普段常に存在すると思われそれゆえに意識されないホットな自己の、喪失がもたらす影響は、それが自己の否定的要素に関わりうるため、逆に常に意識し、ホットな自己とクールな自己のよりシームレスな統合をはかる必要が生じてくる。


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公開日:2000.08.03
最終更新日:2001.09.02
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