民族音楽学講義・イヴェントレポート 第四回
水曜一時限・十一月一日提出・三年次・楽理専攻・9540082・今井敏行
95年7月15日宵々山 京都、四条通西洞院西入
祇園祭、四条傘鉾

「伝えられる伝統と、新しい伝統」

 前回のレポートと話は前後する。祇園祭である。

 祇園祭は、よく知られるように貞観十一年(八百六十九)に疫病災厄の除去を祈願するために始まった祭りであり、特に京都市内を巡る絢爛たる山鉾が有名である。その山鉾の中で古い形式を持つものとして傘鉾があり、現在では綾小路通室町西入の綾傘鉾と、今回レポートで取り上げる四条傘鉾の二つが残されている。興味深いことにそのどちらもが「棒ふりばやし」という、赤熊や花笠をつけ鉦や太鼓、笛にあわせ、棒を振りながら舞われる踊りを持っている。しかし四条傘鉾においては、その伝統自体は応仁の乱(一四六七年)以前まで遡れるにも関わらず、応仁の乱で鉾が焼失、元治元年(一八三三年)の大火でまたも焼失、さらにその後復興されたが、明治四年に巡行に参加したという記録を最後に、いったん伝統がとだえるという、まことに数奇な運命をたどっている。現在存在している傘鉾の本体(ご神体)は、昭和六十年に、傘鉾町の有志の手によって復元されたものである。まさに百十四年の歳月を経て復活したものであり、昭和六十二年には、棒ふり踊りと囃子物が復元され、山鉾巡行への参加は百十七年ぶりにであったという、この四条傘鉾は五百年を優に超す伝統を持ちながら、現在もっとも新しい伝統をあわせ持つ、稀有な存在となっている。

 その踊りが行われるまでの待ち時間、その鉾の回りにいる若い衆(?)に話を聞いてみた。すると、この棒ふり踊りについての資料は、かつてそれがあったということくらいしか残っておらず、復元の際には、棒ふり踊り自体のルーツだという滋賀県にある寺に伝わる踊りを参考にしたという。そして囃子は、埼玉県にある大学の先生に頼んで新しく作ってもらった(!)という話であった。

 ここで私は思いを馳せる。かつての私ならば思いもしなかったようなことについてである。もし以前の私がこの話を聞いたのなら、その聞いたとたんにこの踊りに対しての価値を見いだすことをやめ、この踊りに関すること一切を忘却させるか、あるいは馬鹿にしたりなどしただろう。しかし、その時の私は違った。何人もの少年達が、頭に赤いさんばら髪(赤熊)をつけ、懸命に棒を振りながら舞うのを見ながら、何やら新鮮であり、何やらうれしく思う気持ちを持っていた。思えばこの祇園祭自体が、貞観十一年に新しく始められた伝統なのだ。それがただ(ものすごいことなのだが)、ただの一度も中断させられることなく、現在まで、千百二十七年間保持され、続けられてきたという新しい伝統なのだ。現在までつながっている数々の伝統も、いつか忘れ得ぬ過去の中で新しく始められた物たちであり、その時には、棒ふり踊りのルーツの寺の踊りでないにしろ、埼玉の大学の先生でないにしろ、いつかのどこかのだれかが、新しく考え、どこかから持ち寄り、参考にし、作り上げてきた物なのだろう。現在という、我々がまさにそこに存在する時間の中で新しく始められたこの四条傘鉾の伝統が、この先何十何百年も存続し、受け継がれていくことを考えれば愉快ではないか。私はその伝統が始まった瞬間にこの京都にいて、その誕生を知ることができたのである。本当に愉快なことではないか。

 今年で新生四条傘鉾の伝統は十一年、棒ふり踊りに至ってはまだ九年目である。


 今回参照させていただいた資料は、
財団法人 新村出記念財団『「広辞苑 第四版」CD-ROM版』1993 岩波書店 東京
四条傘鉾保存会『四条傘鉾由来記』
産経タイムス社『平成七年度祇園祭山鉾参観案内書』1995 (財)祇園祭山鉾連合会


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公開日:2000.07.30
最終更新日:2001.09.02
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