『〈藝術〉の終焉』第二部「結び」に対して

 『〈藝術〉の終焉』によって語られた、「新しいコスモロジー」が到来する日は本当に来るのであろうか。確かに来るかもしれない。しかし私にはその「新しいコスモロジー」が、この書によって述べられた「近代と現代の藝術の病」を癒すことのできるものであるとは、到底思えないのである。その理由として、この書によって予測されているそのことが、あまりにも希望的観測によっていると思えるからである。この書では、「現代失われている「共通感」の回復が不可欠」であり、それが行われるという前提のもとに、「新しいコスモロジー」の到来が予測されている。ならば、この「共通感」の回復がなされなかったならば、国安氏のいう「新しいコスモロジー」が到来する日はやってくることがないといえるだろう。しかしながら私にはその「共通感」の回復がなされないという、予感めいた確信があり、その確信は国安氏の「新しいコスモロジー」を著しく否定する。それについて以下で述べようと試みる。

 私は一概に「共通感」の回復を否定するわけではない。それよりもむしろ、過去に人間が有していた「共通感」とは異なる、いうならば21世紀的病理に侵された、新しい「共通感」という形で、それは人間(じんかん)にもたらされると思うのである。ではその新しい「共通感」とはどのようなものであろうか。それは、国安氏のいう「開かれた経験」を導くものに対し、「閉じた経験」を推進するものである。

 そのことを説明するキーワードとして、「情報化」、あるいは「コミュニケーション革命」をあげたいと思う。それらは現代をとくキーワードであるとされ、一般にも広く浸透している。そしてそれは主に社会が「ネットワーク化」することを指しており、すなわち「インターネット」に代表される新メディアにより、個人レベルでのグローバルな情報の入手、そして情報発信をすることが可能になることを指している。しかしながらこの情報化は、かつて一度もなかったほどの、危険性を有している。それは、ネットワークが、現在都市が有している機能を肩代わりすることにより、都市というそのものを解体し、人的交流が行われる機会を減少させることによって、かつて産業革命が人間の疎外を起こしたということ以上に、人間の個に対する非人間化を推進することを指している。

 情報があらゆる、場所、時間、そして人間に対して開かれた形で流通するときに、人間は大きくわけて二種類のやり方でそれに対処することが考えられる。一つ目は能動的に、自らの欲する情報を入手するというやり方、二つ目は受動的に、氾濫する情報をただ享受し続けるというやり方、の二種類である。その二種類に分かたれた彼らは、たがいに交信しないことは明らかであるばかりか、その同種のやり方を身につけたもの同士であっても交信――「対話」――することはない。それはなぜならば、質は違えど、彼らが他者というものを失っているからである。

 前者は、表面的には、同様の情報を求める者同士のコネクションを形成し、その中で人間の関係を保つとも思われるが、しかしその際に個が他者に求めるのはあくまで自己が求める情報の供給源としての役割であり、さらには自己に限りなく同一化する対象としての、なれあいに似た関係を作り出すのみである。その現象は現在においてすでに見られている。それは一般的に「おたく」という用語によって規定されている人達によるものであり、そこでは情報の「共有」という形で「共通感」が形成されている。それはすなわち彼らが同一の情報に志向するために、必然的に同一の感覚が「共有」されることから生じるものである。そのためにその「共通感」は他者と共通するものを有しているという性格よりもむしろ、たまたま共通するものをたがいに有していた、決してつながらないものとしての性格を有する。そのため彼らの間では「対話」は生じない。「対話」に見せかけられた「モノローグ」でしかないといえる。彼らにとっては自らが求める情報以外は無意味であり、そのため意図的にせよ、そうでないにせよ、求めない情報は意識の外に追いやられ過ぎ去っていく。それを端的に示すものとして、ガイナックス(主にアニメを製作する会社)創設者である岡田斗司夫氏の作品に対する姿勢をあげる。

特撮映画のを見るとき、たとえばゴジラが何か壊している時、その裏をも見るわけです。『ゴジラの中に入っている中島さんが、上野動物園に行ってゴリラの動きを見てそれを真似て身に付けた動きで、石膏の中に壊れやすいパウダーを混ぜて作ったビルを壊したぞ! そして、その前にある電線は東映が『サンダ対ガイラ』のときに開発した…』頭の中をむちゃくちゃにして見ている(笑)。その楽しみに対抗するために、アニメはオリジナルを作っちゃだめなんです。それに対抗するために、たとえば血を吐くシーンは『宇宙戦艦ヤマトがゴホッと血を吐くシーン』だったり、『ロボットの足元から出る火はガメラの映画に出てきた宇宙怪獣の火だ』と思ってくれるだろうと作ってるわけですよ。(MacPress vol.55

 そしてこのことから彼は、プロが陥る最大の欠点としてオリジナルを作ろうとすることとし、「間違ったアーティスティックな志向に移行する人間がオリジナルを追及してつまらないものを量産してしまう(同)」という。

 すなわちここでの「共通感」は、作品中にある情報の共有を指しているのであり、決して人と人、あるいは作品と人との「対話」を意味するものではない。この様にして消えて行くオリジナリティーはしだいに原典を不明瞭にしつつ、「新しいコスモロジー」――個人の持つ情報のみに依存する、閉じられた小宇宙を作り出す。

 そして後者は、様々な情報を自らに透過させて行くことにより、他者との均一化を求めていく。しかしそれらはその自己において望まれたものではなく、過剰に与えられる情報によって形成される意識により、みずから望むという形をとらされるという形で形成される。そのためそこではアイデンティティの解体が起こり、個人は個人としての存続を放棄する。いうならばそれは、社会――特にマスコミ――による洗脳、の結果であり、集団ヒステリーの様相を見せるものである。

 それの側面を示唆するものとして、「噂」がある。かつて、日本中に不安と恐怖を巻き起こした「口裂け女」や「人面犬」というものから、最近では「トイレの花子さん」というものまで、常に「噂」というものは都市生活とは無縁ではないものではあったが、その「噂」が変質している。噂というものは本質的には、あくまでもテクノロジーによらないローテクノロジー、すなわち「口コミ」などを媒介にするネットワークにより、広められるものであった。1980年代半ばに生じた「岡田有希子TV亡霊事件」や「今野真理ちゃん誘拐殺人事件」に関する噂などは、あくまでもそのローテクノロジーによって支えられた、旧来のネットワークシステムによるものであった。しかしながらその後1990年代に生じた「人面犬」や「トイレの花子さん」などの噂には、根本にはそのローテクノロジーによって支えられる部分があったものの、基本的にはマスコミなどによる、新しいネットワークシステムによって、広められたものである。すなわちそれは、人が人と関わる中で生まれる、ネットワークアイデンティティ――個人が他の個人と、一つのネットワークシステム「噂」によって常に連結されているということの確認――が消失したことを示している。そのためかつては噂が流布されて行く過程で変容するということもあり、いわば生きた(出所不明)情報であったということができるが、現在の噂はマスコミやパブリッシングによって広告される、一般情報としての性格しか有さない、死した情報であるのである。すなわちここでの噂はかつての、有機性を失っている。そして現在人は、自己をマスコミから与えられる情報にゆだねることによって、かりそめのアイデンティティを有することとなる。ここでは自己がいったんまず否定された上で、仮の自己を与えられることにより、非自己の存在である他者が、のっぺりとしたマス情報としての、他者として認知されることになる。すなわちここにおいては他者のみならず自己も本来的に消失し、存在することはない。しかし、マス情報によって与えられた自己は、他のかりそめの自己と同一化する。そのため、与えられた、無機的な形での「共通感」がそこに、それがないと不安であるという感覚をはらみながら、形成される。そのためあくまでも自己確認のための「共通感」が、対話的要素を生み出すことはない。

*     *     *

 ではそのような「共通感」によってもたらされる「新しいコスモロジー」とはどのようなものであろうか。少なくともそれが開かれた世界を取り戻すようなものでないことは明らかである。このコスモロジーが招くものは、近代、現代のものよりもより強い力で閉塞して行くミクロコスモスである。決して対話が行われない中で、限りなく極化していくものと、限りなく同一化していくものの、両極が、しだいに乖離しながら、その内部でも対話されることなく、推進して行く。そこではすでに人間としてのあり方は否定され、情報操作に対するスキルを極限まで高めたものと、情報を無限に受け入れ続けそれによって存続するもの、の二人種に帰結する。そこでの人は有機的人ではなく、無機化した人、マンマシーンとしての存在である。その21世紀的病理は、現代の病理が近代の継続であったように、現代より派生し受け継がれるものである。そしてそこでの藝術は、人がそうであるように、荒涼とした仮想現実空間に咲く、虚像としての花でしかない。


参考文献

国安洋 1991『〈藝術〉の終焉』春秋社:東京

1990『朝日現代用語 知恵蔵 1990』朝日新聞社:東京
中野収、稲増龍夫 「風俗・流行」
吉川武彦 「精神保健」

山崎正和
1996「コミュニケーション革命と都市」『産経新聞』大阪版 1996年1月6日付 産業経済新聞社:大阪

1996「NEW CREATORES FILE 岡田斗司夫」『MacPress vol.55』株式会社サクレ:大阪

武邑光裕
1996「Takemura's Cyber Suite 第13回 韓国人女性監督作品「syNtheTic PLESURES」」『月刊MACLIFE 3月号』株式会社ビー・エヌ・エヌ:東京


日々思うことなど 1996年以前へ トップページに戻る

公開日:2000.08.03
最終更新日:2001.09.02
webmaster@kototone.jp
Creative Commons License
こととねは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 継承 2.1 日本)の下でライセンスされています。