私は過去にサクソフォンを学んでいたことがあり、そのことから、おもに高校生にサクソフォンを教える機会がある。そのことから感じたり、学んだりしたことを中心に書いていきたいと思う。
今までサクソフォンを教えるという活動の中で、私が一番留意してきたことは、解答を示さず、生徒に考えさせるということであった。そのために何か一つのことを教える際には、幾通りかの方法を生徒に考え発言させ、実際にそれをさせるということから始めることにしている。無論、生徒が誤った方法を選んだのならば、その誤りがわかるよう、生徒に説明する必要が生じてくるが、初期の段階ではそれはまだ行わない。
私が解答を示さない理由は、結果よりもむしろプロセスを重視したいからである。こういうときにはこの様にするという、結果重視のいわゆるハウトゥといわれるような方法では、自発的な行動様式を獲得することができないと考えている。そのために、多少の回り道をすることもあるだろうが、答えをただ欲し人に求めるだけではない、まず自ら考え実践してみるということをさせるのだ。ただし、その考え実践する際に必要な助力は、できるだけ与えるようにすることは言うまでもないことである。
考えさせる際には、一度に多くを求めるのではなく、少しずつを何度も求めるべきであると考える。そのために、最終的な目的を達するための、小目的とでも言えるだろうか、一つずつの階梯を疑問の形で示してやり、その一度一度において考えるということをさせるのだ。そのようにすれば、時間は確かにかかるだろうが、大きな目的のために少しずつ小さな目的をクリアしていくという方法、を知らせることができるのではないかと思う。
しかし私は、プロセスを積み重ねていくことによって結果にたどり着くということを教えたいと思っているのではない。結果にたどり着くまでの方法を覚えた彼らが、おそらく何度も繰り返されるであろう、その結果にたどり着くまでのプロセスの中から、自ら行うという行動様式を見つけてくれることを望んでいるのである。
過去に練習に参加していた卒業高校の吹奏楽部で、突然パート練習中に、指導を求められたことがあった。その時の曲はたまたま知っているもの(かなり有名なもの)だったのだが、さきに述べた理由から解答は示さなかった。その代わりに、その生徒達に「君達はどうしたいのか」と問いかけ、さまざまな例を示しながら、その生徒達の意見を一つ一つ試していき、最終的には生徒の意見を生徒にまとめさせ、一つの結果を出した。その生徒達はそれまで、そのような音楽活動をしたことがなかったようだったが、その時のその体験と、その時話した話の内容によって、自分達で作る音楽というものを、少しながらでもわかってくれたように感じた。
音楽的表現を行うには、まずその表現を行う主体がだれかということを、その演奏する本人、この場合なら生徒が自覚することが大切である。そしてその次に、演奏というものが本来どのようなものであるかということ、つまりは自分が行うべき行為を正しく認識することが大切である。この二つ「だれが」と「どうする」をつなぐ、「どのように」を知るには、結果に至るためのプロセスの中から、少しずつでも一人一人のやり方で見つけ出していくということ以外にないと思えるのである。そのため、教師や指導者である人間は、結果を導き出すために生徒を引っ張って行く牽引車の役目をするのではなく、生徒が結果に至るまでのプロセスにおいて「なぜ」を問いかけ続ける、同行者でなければならないと信じる。
生徒がその繰り返されるプロセスと、他者からの問いかけの中から、自分なりのやり方と、自分から発される「なぜ」を感じたならば、その時からその生徒自身の音楽活動が始まるのだと思われる。なぜならば、常に続けられる自分への問いかけこそ、主体が客観的に自らを見つめ、自らの行為を行うときに必要なものであり、その「なぜ」がなければ、本当の音楽的表現なぞは生まれてこないと思うのだ。
私は人間の根元的な「なぜ」の中に、人間の自発的な行動様式を導くための鍵があると信じているのだ。