「学校生活と生徒の人権」を読んで考える、

『かくも人権意識の乏しい、この国と、学校についてつらつら思う』

 昨年、教育実習に行った際のこと、指導教諭に言われた「生徒には人権意識が皆無だ」という言葉を忘れることができない。しかし考える、果たして人権意識がないのは生徒だけに限ったことなのだろうか。現在いろいろと起こっている事件に、「人間を人間たらしめる」といった気配は、微塵も見えないではないか。それについて、これからつらつら考える。

『子どもを取り巻くこの国のメディア』について

 人権意識が希薄なのは、教育の現場に限ったことではない。言うならば、人間がその成育の過程で受ける様々な刺激が人を教育するのである。しかしながら、その成育環境でかなり強い影響力を与える刺激が、加速度的に人間性を否定するものに変わって行っているように思えるのだ。

 テレビは、限りなく人権を軽んずるするものになっている。過去においてもそれは、むしろ現在以上にあったであろう。しかしそれでも、子どもが見る番組内での、「生命の軽視」、「人権の軽視」、「人の尊厳の軽視」は、見るに絶えないものがある。ゲームのように、いわゆる一つの世界の内での強者が、弱者をいたぶって楽しむ番組が多すぎやしないだろうか。ささいな、とるに足らない理由で行われるテレビメディア内でのその行為が、現実の学校社会における「いじめ」とどこがどう変わるのだろうか。ただ視聴率が取れればよい、というだけの、近視眼的な考え方が、子どもの社会を、ひいてはこの国そのものを歪めてはいないか。

 出版メディアにおける「漫画」というものが、子どもに影響を与えている。ここにおいても「人権の軽視」や「生命の軽視」があり、さらには「暴力の肯定・美化」、「非現実的思考」、「短絡的思考」への傾斜がある。最近マスコミをにぎわせ、ついに逮捕された「暴力的暴走グループ」などは、まさにある種の少年誌、青年誌が好むところのテーマを具現化させたにすぎない。すなわちそれは、友情という名で「徒党を組む」、青春という名で「暴力行為を行う」、ことであり、いまだにその種の「漫画」は引きも切らずにはびこっている。

 これらはすべて、大人が提供するものである。「需要に対する供給」という名目で、社会ぐるみで行われていることに他ならない。異を唱えるものは多いが、しかしそれでもなくなるどころか、増加の一途をたどっている。そこに見え隠れするのは、「経済優先」という考え方である。経済効果を第一に考えるあまり、単純に人の興味をそそる番組や漫画を作っているのではないのか。

 以前あるテレビ局でモニターをしていたときに、五段階評価で〇点をつけた番組があった。他のモニター諸氏の七、八割方(もしくはそれ以上)も、私の意見と同様であった。その番組の内容は低俗きわまりないものであり、具体的に言えば、性的なものを興味本意的に取り上げ、動物虐待を行い、素人をはじめとする他人を笑いの題材としてあざけりもてあそぶ、さらに一番重要なこととして、そのどれもが何のためにそれをするのかという意味もなしに中途半端に終わるという、悪い番組の見本のようなものであった。しかしその番組は現在も続いている、半年以上経つがまだ続いているのである。

 話はそれたが、以上に挙げたようなものが表現の自由と称して、まかり通るのは許されるのだろうか。表現の自由というものは、果たしていかなるものをも優越するだけの立派なものなのだろうか。

『学校の中の子ども』について

 さてそれでは肝心の子どもについてはどうだろうか。『人権意識が皆無』と言われた子ども達についてはどうなのだろうか。

 いろいろな場面で私も子どもに接してきて、先ほど述べた「他人を笑い者にする」気質が、当の彼らに備わっているのを感じる。それもかなり以前から自分に対しても他人に対しても感じており、そのため「他人を笑い者にする」傾向というものが、メディアのせいによるのか、それとも子どもが、人間が元来そのようなものなのか、どちらが先か鶏と卵の関係のようでもある。

 しかし、もしそれが人間に元来備わるものだとしても、それを正し「人間を人間たらしめる」ものが教育であろう。その見方から行くと、次々と教育市場から生産されてくる「非人間的」人間を見る限り、日本の教育は意味を成さないものであると言わざるを得ない。

 その原因は何なのであろうか。よく言われることではあるが、教育に効率を持ち込んだことによると私は思う。効率――社会の要請に沿うべく、即第一線に投入することのできる人材の育成のための、あるいはより高度な教育課程に進めるだけの高度な処理能力を有する生徒を育成するための――を重視するあまり、人間性の育成よりも、非人間的に、与えられた課題をこなし、能率よく目の前の問題を解決する、優秀な人間作りにいそしんではいないか。

 その結果として、踏破できない問題の前でくじける、力なき病的ともいえる弱い人間が生み出されているではないか。一流校から一流大学に進み、一流企業に入ったところでつぶれる人間が増えているそうではないか。どのようなことに対しても、画一的に一つの答えを求める、狂信的ともいえる人間が作り出されているではないか。それが現在の日本の教育の求めた人間像のなれの果てだとしたら、教育はここら辺りで姿を変えるべきだろう。

 もっと「個」に目を向けるべきではないか。各個人個人が、他者と同一ではない自己に向き合えるだけの、より豊かな自分を見つけられるようにすべきではないか。子どもは「人権意識に乏しい」のではない。子どもは自分の中に、大切にされるべき「自分」を見つけることができないため、当然のことながら、他者を尊重することなどできない。もっと誇れる「自分」を、発見することのできる機会を与えるべきなのだ。

 そのためにも、学校は校則にがんじがらめにされるような場所であってはいけない。それこそ瑣末なことで人間の尊厳を失わせ、かつ自己の限界を無残にも思い知らせるような場であってはいけない。もっと子ども一人一人が、その「人」であることを自覚できるような、もっと自分の可能性を感じられるような、場所があっても良い。

 『フォレストガンプ』という映画が、本がはやっているという。それが失われたアメリカンドリームを夢見ているというようなとんちんかんな意見もあるが、私はそうではないと思う。その映画に、本に共感する人達は、ガンプに自分を投影し、馬鹿ではあるが自分らしく生きる生き方や、破天荒で可能性に満ちた人生を、自らも感じたいと熱望しているのだ。

 人間に自らを認めさせたいという欲求があるのなら、自分らしくいきたいということも、自分の可能性を信じたいということも、至極もっともなことである。そう、だれもがそれを知っているのである。だったらそれを始めればいいだけではないか。しかし、だれがそれを始めるのか。ここにも可能性を信じられない人間が一人、毒されているなと自分でも思う。


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公開日:2000.08.03
最終更新日:2001.09.02
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