音楽科の授業で、今現在一般に使用されている楽器としては、何をおいてもまずリコーダーがポピュラーであるが、ここではあえてリコーダー以外の楽器について考えてみたいと思う。なぜならその理由として、リコーダーの持つ、使用時における簡便さ、発音の容易さ、そして価格面での優越性をすべて考慮した上で、リコーダーには大きなウイークポイントがあるという点をあげる。そのウイークポイントとは、リコーダーが他の楽器に比べてかなり容易であるにも関わらず、それでもまだ身体に近づき、同一化するためには距離があるということである。それについてはリコーダーと、一番人に身近な楽器、「声」との比較によって明らかにすることができる。即ち、自らの意思に即し発音及び表現に至るまでのプロセスの数を比較してみる。
リコーダーの演奏にはまず発音というプロセスが必要となり、その際には呼気のコントロール及びタンギングがなされる。この場合の呼気は、かなり「声」と重複する点が多いのであるが、それでもしかし、不自然な行動であることは否めない。さらにタンギングであるが、タンギングは普段の発声時に使用している舌の動きにかなり似てはいるが、それでもしかし、非自然である。さて次にリコーダーの演奏に関わるプロセスとして、運指がある。この運指というのは厄介なものであるらしく、覚えれば造作もないことなのであるが、覚えていなければ、演奏そのものまでに至らない。
この様にリコーダーは、演奏に至るまでに、最低三つのプロセスを経ることとなり、さらに高度な演奏表現を行うならば、以上の三点に加え、音程の補正や、ハーモニー感、アーティキュレイション、など気にしなければならないプロセスは増えて行く。しかしこれに対し普段の生活に密接に関わっている「声」であれば、発声、音程の補正、という最低二つのプロセスを経るだけでよく、さらにその「声」自体が自分自身と同一化しているということを常に感じさせる存在であるため、リコーダーの持つ「インストゥルメント」の性格――自分自身と異なる乖離して行く存在――とは対極である。
ではどのような楽器が望ましいのであろうか。それに対して、私は打楽器、特に手で演奏される打楽器を考える。
打楽器にはそれこそ様々な種類があるが、その中でもボンゴやコンガ等の直接自分の手で触れ、叩き、発音させる楽器に私は期待をする。なぜならば発音までのプロセスとして、そのような打楽器は、手で打つということ、それのみしか有していないからである。しかしそのように単純である打楽器であっても、様々な音色を一つの鼓面から打撃の差によって引き出すことができ、作音楽器としての性格は充分に有している。しかも手で直接打つということが、桴やマレット等道具を介さない、身体行動としての行為の中から音楽行動を行うことができるという点で、歌うということに対して同位であり、人と同一化するに際しての距離を極限まで小さくすることができる。
その音楽的表現という点から考えるならば、リズムのみの演奏ということが、逆にかえって音楽を行うという点で大切である。先日NHK-BSで放映されたウイントン・マルサリスの音楽入門(タイトルはこの通りではありません)において、音楽からメロディを取り去ってもまだそれは音楽だが、リズムを取り去ると音楽ではなくなるということが説明されていた。確かにそれは根元的なことではあるがその通りであり、普段メロディと言えばリズムも内包しているものと考えがちである――常識――を、よい意味で覆していた。さらに、これはウイントンとは関係ないのであるが、リズムを打つということは人間の生存に関わる心拍、鼓動に関わっており、おそらく原始の人類が初めて行ったであろう音楽活動――それは発声であり、打奏であっただろう――に回帰するということからも、音楽を学ぶという点ではまず第一のことであると思われるのである。個体発生は系統発生を繰り返す、という考え方を踏襲するのであれば、初期の音楽教育では、歌うこと、それと打奏を中心に考え、行うべきである。
もちろん、音程を有さない(もちろん音程はあるが、この場合は正確に調律されたものを指さないため、あえて考慮しないこととする)打楽器を使用しているため、後に音程を有する楽器を使用しなければならないということは必然である。しかしメロディを考える前に、それを形作っている、そして普段は特に意識されることのない、リズム、律動、拍節、拍動、ビートを、打楽器を打ちならすという視点から学ぶということは、特に西洋的拍節感を有さない言語環境、及び音楽文化を持つわが国の人間においては、あえて必要なことだと考える。