「西洋音楽の中の民族性」を読んで(96年10月18日)

 かなり以前から感じていることとして、日本には本当の民族性というものが失われてしまったのではないかというおもいがある。様々な国や文化が乱立する中で、日本はどれだけ明確に自分達の文化を誇ることができるだろうか。

 今回このレポートのために昨年度に履修していた民族音楽学講義で提出していた「イヴェントレポート」を読み返した。その時に考えていたことと今考えていることが基本的に変わっていないことに対し安心し、またここで触れることにする。

 昨年、国立民族博物館で行われていた「ラテンアメリカの音楽と楽器展」に行き、その時ちょうど藤井先生の講義があり拝聴させていただいた。そこでは異文化と異文化がぶつかり合うことによって文化変容が起こり、新しい音楽「アジアポップ」や「アボリジニロック」が生まれているということ、異文化、他民族、他文明との衝突によって自民族のアイデンティティが強まり、そのことが「自らが自らの歌を歌う」状況を作っている現状が語られており、「脱亜入欧ではなく脱欧入亜」という観点から「新しいアジア文化の再認識」がされるという結論が導き出されていた。しかし私は日本という国はその動きに乗ることはできないと考え、現在においても同じ考えを持っている。その理由として、中村先生のおっしゃられることと同様、この国では差異の認識が希薄であるということ、また日本国の、日本の民族のアイデンティティが希薄であることをあげる。

 この国に置ける差異の認識の甘さというのは、日本が長期にわたり他国の侵略から護られてきたという、幸運に起因すると思われる。日本人は侵略され民族が滅びるという危機を知らず、ただ異文化からもたらされる進歩的な文化を享受することに甘んじてきた。そのため、他民族との差異を際立たせず、他民族の文化をうまく消化吸収することだけに長けてしまっている。それは、かつての他文化との接触が究めて少なく、また鎖国という政策が行われており、他文化他民族からの影響が最小限に抑えられていた時期においては良かったと言えよう。しかし、明治に入り進歩的な文化(それを一概に進歩的とは思わないが)が一気に導入されたときより、この国の文化、民族性は狂い始めたのである。

 明治において行われた政策として欧化というものがあり、それは音楽に対しても同様であった。その欧化により日本の古来からの伝統はことごとく西洋の文化に対し劣るものとされ、西洋文化に次々と置き換えられていった。それでも明治大正年間は驚くほどに西洋と日本の文化が変容を起こし、国風化していこうというエネルギーがあったように思う。その当時に日本において作り出された「洋食」という日本独自の食事などは、その典型例であろう。しかし、第二次世界大戦が起こり日本が負け、アメリカの巧妙な占領により、我々は我々の民族が他民族のもとに屈伏させられていることに気づかないまま、他民族の文化を崇め奉りそのままを自らのものと置き換えていった。同じ過ちを繰り返すことにより、我々の民族性は我々の手によって息の根を止められてしまったのだ。

 今我々の手にある文化は、かつて一度死んでしまい、根無し草のようにどこに根を張ることもなく、浮遊するものにすぎなくなっている。しかしそのことに対する危機感は希薄であり、日本民族や愛国心という言葉はある種の思想集団を思い起こさせ、タブーのようにさえなっている。そのような、我々の大本である民族を語ることもできない国で、民族を誇り得るであろうか。

 アメリカやフランス、ドイツなど、いわゆる欧米諸国、そして韓国、中国、東南アジア各国など、いわゆるアジア諸国においては、国に対する想いというものがあるように見受けられる(いや、どこの国でも愛国心は弱まっているそうだけど)。しかし、日本においては、それはきわめて希薄である。それは愛国心という言葉がタブーとされ、それに関する教育も行われておらず、さらに我々の中に未だ誇るべき民族性、文化というものが取り戻されていないことが原因であろう。そのような中で何らかの文化的活動を行うときに、我々は何を指針とし、どこに方向を定めるのだろうか。

 民族性が回復され、我々の中に誇りうる血の流れが見いだされたときから、現在の日本人の文化が始まるだろう。しかしまだ我々の民族、文化は、弱々しい青い息を吐く瀕死の病人のようでしかない。地に根を張らぬ人は、その大地を切り開くことなぞできやしないのに。


 97年1月補足:しかし、これでも日本では新しい文化が出現しているようである。むしろ、過去には見られなかった新しいやり方で、独自の文化が形作られている。それらは欧米文化からの借り物文化であるが、それでもそれらは我々の中に取り込まれ、変容させられている。

 96年10月時点では、民族的イデオロギーに我々のアイデンティティを求めようとしているが、現時点ではそれらの自民族に根差すアイデンティティも、歴史からの借り物アイデンティティであると感じている。現在ではむしろ、前時代的なアイデンティティによらない、新しい自律の方法が模索されている時期でないかと思っており、音楽においても同様に、民族性なアプローチというものは弱まっていくのではないかという気がする(根拠はまるでないのですが)。


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公開日:2000.08.12
最終更新日:2001.09.02
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