エジソンの発明による蓄音技術は、同じくエジソンが基礎造った映画とは違い、非常に従属的な発展を見せて来た。映像記録技術に過ぎなかったフィルムが、今や第七芸術と言われるまでの独自性をもつ「映画」となったのに対して、レコードは未だに音声記録技術に過ぎない。このことはレコード盤から、CD、MDに至るまでも同様なのである。
現在、次々とリリースされるCDの多くは、既存の音楽やコンサートを記録、再現するものである。録音ソースに依存し、その中で完結しないCDは、未だ芸術にはなっていない。それに対する映画は、その映画という中で完結している。このことは冒頭に述べた、レコードが、映画とは違い、従属的発展を遂げて来た結果であり、これからもこの歩みを続ければ、レコードは文化になり得ないのである。
「コンサートは死んだ」と公言し、ステージから姿を消したピアニスト、グレングールドは現在のレコードの在り方に疑問を投げかけた。彼は演奏会から退いた後も、スタジオピアニストやプロデューサーとして、演奏活動を続けた。それらの中には、かなり独創的な試みが数多くある。ピアノの録音の際にはミキサー作業にまでかかわり、文字通り指揮を振り、自己完結する録音を形作っている。プロデューサーとしては、三人の人間から採ったインタビュー(これらはごく普通のインタビューである)を対位法的にミックスし、一つの音楽的作品として完成させている。
一つの試みとしてミュージックコンクレートがある。録音して来たソース――町の雑踏や車のクラクション、ガラスの割れる音など何でも――をレコードテープ上で組み合わせて、一つの作品を「作曲」するものである。
このような例は、現在でもプログレッシヴロックのジャンルで盛んに、そしてより発展的に行われている。決してコンサートで再現できない音楽――多重録音や、偶然性によるもの――や、再生装置の特性を活用した音楽――左右のチャンネルに別の音楽を振り分けたもの――などが彼らによってリリースされているのだ。
しかし残念ながら、これらの音楽は映画のように一般的な地位を獲得せず、一部の愛好家の間で流通しているのが事実である。さらに、愛好家の中でもこれらは実験的試みと見られ、評価されにくいという一面もある。
そのような現在の音楽シーンにおいて、サウンドトラックやミュージッククリップの分野は期待ができる。サウンドトラックはその元の映画やテレビ番組の雰囲気を損なわせなず、より拡張させるために、さまざまな試みがなされることがある。何曲かの音楽をまとめ一連の連続する作品にしたり、ミュージカル仕立てにされることもあり、厳密にはサントラとは言えないだろうが作品中で用いられた音楽を変化させたり、さまざまな効果や音響を付加しているものもある。ミュージッククリップでは、ミュージシャンの紹介ビデオというものからミュージシャンの表現手段の一つに確実に変わって来ている。
これらの二つは今かなり一般的に聞かれている。人気のある映画やドラマのサントラはヒットし、有名なミュージシャンのクリップは、テレビでもよく紹介されている。このように商業ベースに乗っているものから、レコードだけで完結する作品の創出という形式が広く行き渡ることを期待する。
そうなれば、レコードの音楽体系は様変わりするであろう。まず現行どおりのレコードと新しい芸術表現を目的としたレコードが共存することになり、新しい芸術表現様式となったレコードはさまざまな動きを見せる。独善的に言うならば、そのレコードには、かつて映画がその映像表現のために音楽を従属させたように、音楽に従属する映像が持ち込まれる。さらに、多様化して行く需要に対応するべく、カスタマイズできる環境が整えられる。すなわちレコード製作者の意図の範囲内で、聴くものがいくつもの形を選択し再構築でき得るもの――相方向性を得るのである。
そのためには環境の整備が必要だ。現在流行のパーソナルコンピュータや、映像も記録できるCDが開発され、普及すれば安価に芸術レコードの供給ができるようになる。こうして需要が増加し、このジャンルの中から、映像作家に対するところの音楽作家が現れ、才能を発揮してくれるといい。
我々が音楽に触れるのは「実演」よりも「記録」であることのほうがはるかに多い。しかしその「記録」が単なる手段であり、手軽な芸術鑑賞法で有る限り新しい音楽の形は生まれ得ない。であるからこそ、その記録――レコードこそが次代の芸術表現を勝ち取り、我々の生活に最もかかわる芸術になることを期待する。そして、そうした中から新しい文化が生まれてゆくだろう。
かつての人々が暗闇を切り開き、新しいものに心を躍らせたことに……