ゴッホ【Vincent van Gogh】(1853-1890)は、一般的に後期印象派画家として知られている。しかしゴッホを、このように印象派の画家として論じることは妥当なのであろうか。むしろゴッホは、独自の様式を持った画家なのではないか、という点からこのレポートは論じてみたいと思う。
フランス革命以後に台頭してきたのは、まさに市民階級であった。彼らはしだいに力を強めていき、十九世紀の半ばには、社会の中心を担うまでになっていた。そしてこの時代の美学というものは、その市民階級――ブルジョアの好みに従い、変化していく。
市民階級が勃興することにより、芸術の享受層が拡大し、さまざまな知識層が芸術を享受することとなった。芸術家たちはそのさまざまな大衆のニーズに答えなければならなくり、しかもその大衆のほとんどは決して知識的に優れた人々ではなかった。そしてそのような彼らが好んだものが、より理解がたやすい芸術、写実主義的な絵画であった。
芸術家たちも、過去の王侯貴族などの芸術保護者たちに仕えていた時代とは変わり、生活のために自分の芸術を売って生活しなければならなくなった。そこで当時の芸術家たちは、当時盛んであったサロンにこぞって出展する。サロンで賞を取るということが、自分の作品が高く売れる商品であるという証明になったからである。しかしそのサロンで賞を得た作品というのは、一体どのようなものであったのであろうか。
それは新興の市民階級が好んだ、写実主義的芸術であった。新興のブルジョアたちは写実主義を信奉する半面、過去の芸術保護者たちの趣味を学ぼうとしており、その動きが、当時の写実的な風景画の中に、ニンフなど、妖精を住まわせる理由となり、そのような絵画もまた高い評価を得ていた。
この時代に重要視されたことは、絵画が写実的であるということであった。そしてさらには古典主義的な妖精などの現れる、折衷様式的なものであった。それらの中には芸術家の内からわき出たものというよりも、その社会の求めるものに迎合するという形で制作されたものも少なからずあった。
しかしここで新たな動きが表れる。印象主義である。
その発端は一八七四年の展覧会であった。いや確かにその動きはそれ以前にあったのであるが、社会的に認知されたのがその年であったということは、まず間違いないであろう。
パリにあるナダール写真館で開かれたその展覧会には、モネや、ドガ、セザンヌ、ルノアール、ピサロ、など合計で三十人の画家たちの、百六十五点の絵画が展示された。歴史的に見ても不評であったその展覧会は、揶揄、中傷の形ではあるが、「印象主義」の名を世間一般に知らしめることとなった。嘲笑に近い形で批評がなされ、激しい非難、攻撃がなされたのであるが、その印象派の画家たちはあきらめることはなく、その二年後にデュラン・リュエル画廊にて、参加者二十名、出展数二百五十点という、第二回の展覧会を催している。このときの攻撃は第一回のときのそれを上回った。彼らはそれでも展覧会の回を重ねていったのだが、彼らの理解者、賛同者は増えることはなかった。しかしその頃、サロンに出展される若い画家たちの作品の中に、彼らの印象派技法を用いるものが増えてきたのもまた事実である。
ではその印象派技法というのはどのようなものなのだろうか。それは日本趣味に影響を受けているといわれている。一八六七年から六八年に制作されたマネの『ゾラの肖像』には、明らかに日本の屏風絵や浮世絵が見て取れる。マネの描く人物像などに顕著に表れる、二次元性あるいは平面的な表現は、明らかに日本画から受けた影響であろう。そしてそのマネに触発されたとされている印象派の基本理念は、カンバス上に自然の光を色彩の震えとして捕らえるということであった。そのため彼らは色の「混ぜれば混ぜるほど暗くなる」という性質を、混ぜないということで克服した。つまりカンバス上に散らされた原色の色点が、それを見る人間の網膜上で混色されるようにしたのである。この色彩分割と呼ばれる技法によって、色はより光に近い形で表現されるようになった。そしてその色彩分割を押し進めた結果、形態は周囲の空気に溶け込み、不明瞭なものになっていく。
つまり印象派の絵画というものは、色彩分割によってなされたものであったわけである。そしてそのことが当時の美学に反したのであった。
若い画家たちに影響を与えながら、印象派展覧会は回を重ね、第八回で終了した。その十二年間で、社会的に印象派は無視できない存在となり、その印象主義自身も大きく変容している。当時急速に進歩した自然科学的視点から色彩分割を再検討し、新印象主義を確立したジョルジュ・スーラ。セザンヌや、ゴーギャン、ゴッホらの属する、むしろ印象派へのアンチテーゼともいえる後期印象主義などである。
そしてここで問題とされるのは、後者である後期印象主義なのであるが、この芸術傾向を一概に論じることはできない。なぜなら後期印象主義の画家たちは、芸術傾向によって分類されているわけではないからである。そしてここに今回論じられるゴッホが存在する。
ゴッホが印象主義絵画に触れたのは、実に第八回印象派展覧会でのことであった。すなわち最後の展覧会である。それ以前のゴッホの作風はどちらかといえば暗いものであり、農民や労働者を描いたものがほとんどであった。しかしこの展覧会と、その後に触れた日本絵画によって彼の作風は大きく様変わりする。それは彼の晩年の絵画に見られる、明るく強烈な色彩と、うねるような筆致による激情的な表現である。
しかしいまだ写実主義絵画が全盛の世の中では、このようなゴッホの絵画は一般に受け入れられたわけではなかった。なぜなら彼は決してうまい画家ではなかったからである。
この当時のアカデミーでのゴッホの評価は惨憺たるものであった。アカデミーはゴッホに対して、デッサンの勉強をする必要があるという評価を下している。すなわちアカデミーが、絵画において重要と考えられていたデッサンの技術が、ゴッホには充分に備わっていないと考えていた証拠である。
つまり、このように評価されたゴッホが、この時代にあの作風を持って絵画の制作をしたとしても、決して当時の社会、大衆に受け入れられるはずはなかったのである。
そしてゴッホは精神的にも経済的にも不遇な人生の中で、ピストルによる自殺という形で人生を終えている。
しかし、その後のゴッホへの評価は彼の在命中のそれとは、明らかに対照的な様相を見せている。
彼のその独特で色彩的な作風は、二十世紀初頭にフランスに現れた、野獣派といわれる様式に影響を与え、受け継がれている。その画家たちはアカデミズムに逆らい、単純化された形体を、大胆な筆遣いにより原色で描くというものであった。
このように死後評価されたゴッホの芸術は、彼の在命中には悲しいばかりに居場所が与えられなかったものばかりである。しかし大きな芸術の流れの中では、一つの様式を切り開く大きな動きであったことは確かである。彼の芸術様式が時代を先取りしていたかどうかについては知り得ないが、彼の芸術にとっては彼の生きた時代というものは、どちらに寄ることもできない、まさにはざまであったのであろう。
今現在、彼の絵が美術館や有産者によって、莫大な金額でもって取り引きされる様は、当時の大衆や美学者達には考えもできないことであったに違いない。
マルク・エド・トラルボー、坂崎乙郎訳『ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ』河出書房新社 1992
高階秀爾責任編集『大系世界の美術 第19巻 近代美術★★』株式会社 学習研究社 1986(1973)
V・フォレステール、朝吹由紀子訳『人間ゴッホ ―麦畑の挽歌―』(株)美術公論社 1987
財団法人 新村出記念財団『広辞苑 第四版』CD−ROM版 株式会社 岩波書店 1993