またしてもオリンピック関連。はっきりいって、僕は今大会から大のオリンピック好きを自負します。
というわけで、いたましいこと、二題。
ルーマニアの女子体操金メダリスト、アンドレーア・ラドゥカンが金を剥奪された。理由は、競技後のドーピング検査で興奮剤、エフェドリンに関する陽性反応を示したからだ。
しかし、この裁定はあまりにも状況を無視し、人間とスポーツの精神を踏みにじる、乱暴な勇み足に過ぎないのではないだろうか。
体操競技において、エフェドリンを服用することによる有利はないとされる。むしろ「体操の演技を悪くこそすれ、良くするものではない(ルーマニアオリンピック委員会会長ティアリク)」ということだ。
このエフェドリン投与による有利がないことは、IOCも認知していると見て間違いないだろう。というのは、IOC事務総長カラードが、ラドゥカン選手の金剥奪の会見において「選手はかわいそうだ」という同情を示していることが、明らかにエフェドリン服用がラドゥカン選手の意図によるものではなく、またそのことが競技上有利に働かないことを分かっていることを匂わせる。
禁止薬物を摂取していたためにメダルを剥奪するという論理は至極よく分かるものだが、はたして、それら薬物を禁止する根本の理由はどういうものだったのだろうか。ドーピングを辞書で確認すると、「スポーツ選手が成績を高めるため(広辞苑)」、「一般的に、競技力を高めるために薬物を使用すること(imidas)」とある。となれば、今回のラドゥカン選手の事例はドーピングにあたるのだろうか。
ドーピングが禁止されたのは、薬物を使用することのフェアプレー精神に反するという倫理的な側面からと、選手を薬害から守るため、であった。この点をふまえると、エフェドリン投与によるラドゥカン選手の金剥奪という裁定は、むしろ過剰過敏に過ぎる裁定に思える。
そもそも、エフェドリン自体は、鎮咳去痰剤として使用されているもので、総合感冒薬に多く配合されるなど、一般的なものである。それをもって、ドーピングの本来の意義を見失い、過敏過剰に反応することが意味あることであるとは、到底思えない。
彼女の不幸は現時点でのメダル剥奪にとどまらない。むしろ現時点では、時間と記憶を共有できているだけ、不幸の度は深くないといえる。様々に与えられる情報によって、我々は彼女の潔白を、充分に思い、知ることができるからだ。
だが、彼女に対する酷な裁定が、記録として後に参照された場合、一体どのように判断されるだろうか。今我々が共有しうる様々な情報は風化し、彼女が「ドーピング」によってメダルを剥奪されたという、実質を伴わない記録だけが独り歩きする。ドーピングという表層的な記録が彼女につきまとい続けるのだ。
ルールというものは、本来人間に奉仕するものであったはずだ。円滑にことを運ばせ、不利益を起こさせず、人を守るものとして、働くものであったはずだ。しかし、ルールが、人間を無視しそれ自身を中心に適応されるとき、往々にして不幸は生じる。
人間のためのものが、逆に人間を縦横に切り刻むものとなりうるのだ。
ラドゥカン選手がルールにより裁かれたのなら、逆にドーピングに関するルールを改定することは不可能なのだろうか。禁止薬物を、全競技にわたり一律に適用される大ざっぱな枠組みとしてではなく、競技ごとに個別に適用される、より細かく区分された適切なガイドラインとして、再び定義し直すことは出来ないのだろうか。
このまま、乱暴きわまりない見せしめ裁定により彼女が裁かれることについて、惨いという以外に、表現する言葉を僕は持たない。なんとしても、彼女に対するこの裁定が解かれ、メダルとともに名誉が回復されて然るべきだ。
どうやらドゥイエ選手は、その支持率を極端に落としている模様。他所で教えてもらったWebサイト (Actualite du Judo en direct sur France.sports.com) にドゥイエ選手の金メダル獲得の記事があり、そのすぐ横でドゥイエ選手に関するアンケートが行われている。
記事を訳してみると、
巨大なるドゥイエ!
この並外れたフランス人は、二冠の世界王者、篠原に直面する夢の決勝戦の結果、彼の重いオリンピックタイトルを守り抜いた。
この巨大なダヴィッド・ドゥイエは、二度の有効によって彼の敵を降し、名高い山下を越え、歴史上最も偉大な柔道家となった。四度の世界チャンピオン、二度のオリンピックチャンピオン、この現代のゴリアテ、ダヴィッドは永遠に世界の巨人であり続けるだろう。
この記事のすぐ横に、「ドゥイエは、つねに最も偉大な柔道家であったか?」という問い掛けがあり、僕が投票した九月二十五日時点では、1830人投票で、Ouiが1.2%、Nonが96.9%だった。
やはり、あの決勝戦での判定が、少なからず彼の栄光に傷をつけているようだ。
ドゥイエ選手自体は、けがからの復帰後、ベストを尽くして戦いオリンピックの決勝にまで勝ち上がってきているわけであり、恥じることのない立派な選手であることは間違いない。その彼本人にはなんの責任もない咎をもって、このような結果になっているのだとしたら、正直いってやり切れない。
あの判定のために、なんの咎もない、篠原もドゥイエも双方傷つくはめになってしまった。その意味において、あの判定は本当に罪深いものであったと思う。