第11回 芸術祭典・京

「アルレッキーノと太郎冠者」

演劇ワークショップ四日目



ワークショップ四日目

 降り続いた雨がようやく止んで四日目。けれど、身体はいつにも増してがたがた。前日のブリゲッラの受け止めが利いて、右手は腕全体から肩、首まで痛みます。脇腹も腰も痛く、このままでパンタローネになれそうなほどです。でも、頑張らないと……

身体を動かす

 昨日と同様、パーカッションリズムに合わせての歩きからのスタートです。けれど、今回は劇場の大観衆の前で、バレエをするかのようにという注意がありました。つまり歩くのに一生懸命になるのではなく、喜びを表現しながら、なにか素晴らしいものを感じながら歩こうというのです。

 頑張りましたよ。身体が自然に動くよう、そして意識は自分から解き放たれて自由にあるように、やれるだけはやりました。けれど、得意な動作とどうしても出来ない動作があるんですね。とりわけ、アルレッキーノの歩き方につながる動作ができなくて、弱りどおしでした。

老人になる

 舞台には常に二人の人間が存在するのだそうです。一人は演者、もう一人が役です。演者は演じている役と常に葛藤状態にあって、二つの人格がたたかっているといっていいでしょう。それが、次第に役の人格が舞台に残り、演者は消え去っていく。ついには観客席から、自分が演じている舞台を見ているかの気持ちにさえなるのだそうです。

 ひとつの試みをおこないました。北の地方。雪が降っていて寒く、侘びしいうらびれた老人ホーム。老人たちはいろいろなことで心を悩ましながら日々を暮らしている。何年も、誰も訪ねてこない寂しい老人。耳も遠くなり、体調も優れない老人。惚けたような人もいる。

 心の中に苦悩をたわめていって、老人になりきってみたのでした。雲の切れ間からもれくる日差しにあたろうと集まり、昼食を告げる鐘が鳴り動き出す。それらを、いわれたようにではなく、自分の中に出来上がってくる老人の苦悩でもって演じるのです。

 結構やってみると面白く、けれど難しいです。しかしなにが困ったといっても、このメソッドが終わった後も、しばらく苦悩する老人が出ていってくれなかったことでしょう。

 この後は、皆でタランテラを歌って、アルレッキーノやパンタローネといったコンメディア・デラルテの人格を演じました。ここでの注意は、とにかく声を出すこと。自分が出す声が動作を生みだすのだそうです。

 そして呼吸法の練習をし、即興でマルケッティ氏の出す様々な音に反応し動き回り、二日目にやったコンメディア・デラルテの人格になって歩くということをやって、今日は終わりました。

明日の予告

 本日は、今までやったことをおさらいしながら、その動作が持つ意味を確かにしようとしていたのだと思います。頭や意識から取り払われた自由な身体になることと、役――アルレッキーノやパンタローネの人格をしっかりと作り上げること。マスクをつけたときに、マスク以上ではなく以下でもなく、そのマスクそのものに全身がなるという話でした。また、マスクは人生の真理を舞台に引き上げ、普遍性をもって描き出すのだそうです。

 そして明日はマスクをつけるのだそうです。無表情の、パントマイムのマスク。これは、声も出さねば表情も出さないため、身体の動き、動作ですべてを表現しなければなりません。そして、コンメディア・デラルテの仮面。これらを付けたときに、自分はどこまでなにを出来るのか。ものすごく興味があって楽しみです。

 明日は、なにがあってもベストコンディションで挑みたい、と思います。


演劇ワークショップ五日目

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公開日:2001.05.25
最終更新日:2001.09.02
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