第11回 芸術祭典・京

「アルレッキーノと太郎冠者」

演劇ワークショップ五日目



ワークショップ五日目

 今日は晴天。いよいよマスクをつけようというところまでやって来ました。全六日間のシリーズなので、進むのも早い。果たして自分に、どれだけのことが出来るというのでしょうか。

マスク1――パントマイムのマスク

 用意されたマスクは、大きくわけて表情豊かなコンメディア・デラルテのマスクと、白一色で顔面すべてを覆うパントマイムのマスク。こちらは、まったくの無表情です。

 シチュエーションは、塔の狭い一室。出入り口のないその部屋に閉じこめられている捕われ人が、一筋の光を見つけそこに希望を見出す。しかし、手を伸ばすのも束の間、光はふいに消えてしまう。

 これを表現します。

 一人目の女性がマスクをかぶり、マイムをはじめました。最初はゆっくりと、けれど突如なにかが憑いたように鬼気迫るものに。そして光が見え、それに手を伸ばすもふいに消えた光に絶望し、くずおれて終わる。参りました。参りましたよ。

 こんなこと出来るわけがないと、正直恐れ入りました。で、よりによってこの次が自分の番。殺生な、なんてひどい仕打ち。

 マスクを手に取り、自分の中に状況を組み立てていきます。出来るだけゆっくりと見せるようという注意をもらい、マスクをつけ、ふりむけば始まり。壁に手を触れていき、どこからも出られないことを知りながら、石組みを外そうとする。そうしてあがきながら、ふと石組みのすき間から光が漏れてるのを見つけ、指を差し入れ、そのすき間を広げようとするも、光が消えて愕然と座り込んで終えました。

 マルケッティ氏が問いました。あの指を伸ばしていたのはなんだったのか。ということで、上記の意図を身振り手振りもつけて説明(おそらく、マイムの時より雄弁だったに違いない)したところ、マイムというのはそういう自然主義的、リアリズムに基づくものではなく、様々な事象を象徴的に表すものだと。石組みに指をかけるのではなく、動作が不安を表し、光を見つけ、希望を見出したことを語り、そしてその希望が消えるさまを形作らねばならないとのことでした。

 そのためには、人がなにかを感じたときの特徴的な動きを、よりよく観察しておく必要があるだろうと。また具体的な動作によらず、人の内面を視覚化できる身体動作を意識の中に組み上げられないといけないな、と思いました。けれど、これは難しいことですね。

 また、無表情の仮面でなにかをするときには、呼吸の音さえも消して、人の気配を絶たねばならないと実感しました。自分はそれをやってしまったのですが、他の人の試演をみていたときに、不安を募らせる呼吸音が、逆に舞台上の物事を現実に引き戻して嘘にしてしまうのです。出来れば、まばたきもしないほうがいい。ということは、身体のすべてをコントロールする必要があるということなのでしょう。やってみて気付くこともあります。

マスク2――コンメディア・デラルテのマスク

 第二幕は、コンメディア・デラルテのマスクをつけての試演です。一人目が選ばれ、アルレッキーノのマスクをつけ、椅子の上に立たされました。そのマスクをつけ直立する彼女のポーズを、まわりから我々がひとつずつアルレッキーノのポーズに直していく。そして、充分アルレッキーノになったところで、マルケッティ氏がアルレッキーノに話しかけていきました。

 アルレッキーノは、アルレッキーノになり切って話し、動き出しました。椅子から降り、話し方も身振りも彼女のアルレッキーノになっているその彼女を見て、自分にはこういうことはできないな。いつだって、そう思います。

 そして二人目。マルケッティ氏が取りだしたのは、氏の使っているものよりもいやらしさを増したパンタローネのマスク。そして呼ばれたのは――自分。いやあ、そんなことになるんじゃないかと思ったんだ。

 椅子の上に立ち、マスクをつける。想像以上に視界は狭く、自分が今どういう状況にあるのかまったくわからない。これは、恐ろしいことです。それをよってたかって、じじいのポーズに変えていく。「うわあ、よく似合ってるわ」ってそんなこといわれても、ちっとも嬉しくないです。

 そして動き出す。すっかりじじいの動作で、椅子から降りるのに人の手を借り、覆いかぶさってようやく降りて、よたよたと歩きながら、あたりからの呼びかけに応えていくのだが――

 やってみて、動作はなんとか。じじいらしく動くし、手までふるえたりする。けれども、難しいのは言葉でした。

 話す。すると正気に戻るのです。じじいの声で話そうとしても、受け答えの時に正気に戻ってしまうのはやり切れませんでした。まあ、年寄りというのは困ると聞こえない振りをするわけで、それで乗り切らせていただきましたけれど。

 しかし、今回の試演は自分がことごとく言葉の人間だと意識させてくれました。動作は自分を越えようと、声が言葉が、常に自分を規定し続けていると思い知りました。身体は自由にあっても、意識は言葉の呪縛をふりきることが出来ない。

 これが次の課題でしょう。

明日の予告

 最終日である明日は、今日の試演を発展させて、もっとも簡単なコンメディア・デラルテの一シーンを演じることになりました。その内容は……次回の更新で!


演劇ワークショップ六日目

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公開日:2001.05.26
最終更新日:2001.09.02
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