機上にて

 飛行機が高度を下げ、雲を抜けるときのあの揺れは、いささか不安と動揺を誘って、いつもながらぞっとする。翼はと見ればぐねぐねとたわんで、今にも折れるのではないかと不安はいよいよ募るばかりだ。わたしは、飛行機は落ちない飛行機は落ちないと、言葉にはせず繰り返しながら、この巨大な建造物を空に送った人間の英知を信じようと躍起であった。

 しかしなんだというのだろう、この飛行機というものは。それは建築にも似て大きいのに、いまわたしを乗せて空の高みにある。かつては憧れた空だ。このような空の高みには神が住まうと信じていたわたしは、代々敬虔なクリスチャンの一家に育った。毎日曜は地区の教会に通い、ミサの神聖な雰囲気にうたれながら、壁面と天蓋を埋め尽くすフレスコに見入っていた。神は足下に雲を従え、燦然と輝く光であった。今窓外には暁光に照らされる雲が一面に広がっている。わたしはこの光景を今まで何度も目にしてきたが、神と出会ったことは一度もなかった。だが、今ここに神がいないと、一体誰が言い得るだろう。わたしは今、強く神の存在を感じている。日頃よりも、かつて通った大伽藍においてよりも、なお強く神の存在を感じているというのに。

 宇宙飛行士も、地上を遥かに離れた高空で、神の存在を感じるときいたことがある。昔し天にも届く塔を建造しようとした人間は、その思い上がりに神からの罰を受けたのだ。なら、この飛行機はどうなのだろう。この空を行き、神の視点に似たものをわたしたちに束の間感じさせる乗り物は。神は、不遜なるわたしたちに対して、もはやあきらめ罰を与えることも億劫と、いっそ捨て置かれていらっしゃるのか、あるいはこれこそが神の与えたもうた業であったのか。神は、神の住まう高みに人を誘い、より高くあれよとうながしていらっしゃるのだろうか。

 空にあって空を見上げた。空はこの空の上になおも広がるなら、神の在所はまさにその空かも知れない。

続く


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公開日:2001.10.26
最終更新日:2001.12.31
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