その時僕には愛したいと思える女がひとりあって、どうすればよりもっとその人に近しくあることができるか、そればかりを考えていた。世間から少し離れてこちらを見ている、そんな印象のある人で、僕はその雰囲気にこそ引かれたのだと思っている。そしておそらくその雰囲気は、その人の来歴に起因していた。
その人は根治しない病を患っていた。最も多感な時期に発病し、以降制限ばかりの生活を強いられてきたと聞く。緩解と再燃を繰り返す状況、自暴自棄になったこともあった。なぜ自分がと恨み、だけれども、今はもうずいぶん受け容れられるようになった、これは仕方のないことなのだと言っていた。僕が病気のあらましを聞いたのはすでに愛し始めて以後だったのだが、だからその人の病気であるということの告白に、思慕を深めることはあれど、覚めるなどということはあるはずもなかった。告白は、僕をあきらめさせるための最終手段だったが、まったく裏目に出たわけだ。僕は、その人を誘って演奏会の帰り、最寄りの駅まで送ったことを口実に、その人を口説き落とそうと躍起になっていた。
ある冬の夜の、場所は駅の構内であった。雪が降るほどではなかったが、しかし寒い夜で、吹きさらしのホームのベンチにかけて長々と話した。飲みも食べもせず、話ばかりであった。
電車が目の前を過ぎていく。それがもう何順目にもなったろうか。あちらへこちらへそれながらも、話題は一定収束を見せた。その向きは最良とはいえないものの、次へ繋がるものであった。意外にも僕は焦っていなかった。この懸案は五年計画と決めていた。急いでどうなるものではないと思っていた。それは徐々に動き出そうはずであった。
だから、あの夜、駅を出てしまうべきだったのだ。夜はそれほど遅くなく、車両の行き来はまだ活発であった。列車の停まるたびに、人がホームにあふれる。何度目かの停車車両だった。扉の開いたそこに知人がいた。