撤退、撤退、撤退の世の中です

 大阪に出たある日、あまりに気分が良かったので帰りにワインでも一杯と思い、阪神百貨店の地下に寄り道した。

 食品売り場をうろうろ。めったにここまではこないので勘がつかめず、案内の看板を頼りにワイン売り場に向かった。ここにはワインをちょっと飲めるカウンターがあって、学部生の頃、大学の姉に連れていってもらったことが一度あったのを覚えていた。大学の姉というのは同じ姓を持つ上回生で、独特の雰囲気のある彼女に私はなついていた。彼女にいろいろ連れ回されたおかげで、私は少し人間らしくなれたのだと感謝している。

 ワイン売り場に着けば、どうもそのカウンターが見つからない。店の人に聞いてみた。そうしたら、随分前になくなったとのことだった。そうですか、ありがとうと返事するばかりだった。

 いつも梅田で飲んでいたワインの店はどうしたのか。実は、ここはとうに違う店に変わってしまっていて、そのそばを通りながら寄らなかった自分も悪い。馴染みの店が失われるのは悲しいことで、逆にその失われたことが阪神の地下を思い出させたのだが、そこもまた失われているとは思わなかった。

 失意のうちに阪神の地下を出て、またも思い出した。阪急の地下に量り売りの店があった。そこでグラッパでも買おう。しかし、久しぶりの阪急の地下は模様替えされていて、見覚えのない場所みたいになっていた。なので案内の人に聞いた。量り売りの店はどこに行きましたか。そうしたら、撤退しましたと答えがあって、こうして私の愛する場所は消えていくのかとがっかりした。

 街は変化しながら動いており、当然生まれるものの影に消えるものがある。消えたことを嘆くくらいなら、その前に支えなければならなかったのだ。分かってはいるが、寂しさはいいようもない。消えた店たちは、私のような生来の少数派にこそうったえる店だったのだろう。思い出の場所とともに消えた人たちは、今どこにいるのだろう。


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公開日:2004.01.13
最終更新日:2004.01.13
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