私は、二千五年の年賀状を出さなかった。昨年、両祖母を亡くしたためである。だが、あなた方はおそらく、年賀状と祖母の死がどう関係しているのかわからないだろう。社会の仕組みにいまだ呪術的要素を残している国、日本では、死は穢れとみなされ、穢れを伴う私は年賀状を送ることができない。因習が私たちを制止するのである。同様に私は聖域である神社にもいかなかった。聖なる存在は穢れを嫌う、人々はそう信じているのだ。
近親者の死によって年賀状が出せない。だが、これは挨拶しなくていいということじゃない。私たちの古めかしい社会は、相変わらず新年に儀礼的な紙片を求めている。なら、いつものやり方を選べない人たちは、この要求にいったいどのように応えるというのだろう。
第一の方法:年始の挨拶をしない旨、端書であらかじめ断ってしまう。これが一番いい方法だろう。丁寧だし、端書の儀式に費やした労力も見せられるし、それに年賀状を受け取らずに済ませられる。穢れがある人にとっては、年賀状は出すだけじゃなく、受け取るのも好ましくないとされるのだ。あなたの大切な誰かが亡くなるようなことがあったら、ああ、それはあまりに悲しいことで、しかも私は今またその真っ直中にある! その時は、あなた宛の年賀状が投函される前に、端書を書くのがいいだろう。年賀状はたいてい十二月下旬に準備されるから、その前に欠礼の端書は出してしまおう。
別の方法として、これは私の選んだものなのだが、寒中見舞いというものがある。日本には、暑中寒中に健康を気づかって手紙を書くという風習があるのだが、この風習を年賀状のかわりとして利用しようというのだ。喪中の人間にとっては、端書の儀式に参加するチャンスである。年賀状を出し忘れたものにとっても同様だ。
だが、寒中見舞いは寒中に送らないといけない。寒中とは、小寒(一月六日ごろから十九日ごろまで)と大寒(一月二十日ごろから二月三日ごろまで)を合わせた期間のことだ。日本人は中国に起源を持つ、一年を二十四に分ける暦を使っており、この暦によれば、二月四日を過ぎた今はもう春なのである。いまだ寒いが一月の寒さはもう去った。だから、寒中見舞いを出すことはできないと、確かに理解できるのである。
(初出:Les douze mois au Japon, mais selon moi,オリジナル:フランス語)