ベルギーのお嬢さんとメールを交換しているのだが、そのお嬢さんの書くフランス語というのがおそろしく表現力に富んでいて、読むたびに二度三度くらいはうならされる。なんというのだろう、状況心理を説明するフレーズが、日本人の私には備わっていないような、一足飛びに心の真ん中をずどんとやられるような、そういう鮮やかさを持っていて、これは彼女がヨーロッパ人だからなのだろうか、それとも作家志望の彼女が特別なのだろうか。いずれにせよ確かなのは、私は彼女の表現に参ってしまっているということだ。
例えばこうだ:誕生日を教えて欲しい。もしその記念日にお祝いをすることができなかったら、私の心はきっと壊れてしまうでしょう。
いきなり壊れるというショッキングな表現。強い言葉が打ち込んだ衝撃は、結局私を喜ばせて回収される。私にはこういう鮮烈な言葉遣いはできない。奥ゆかしい日本人だからか。そもそもの発想の乏しさか。彼女の表現には、正直、骨の髄までやられる。
フランス語を書くときは、努めてフランス語らしくなるようにと心がけている私にとって、この文通は、計り知れないほど豊かな文例を提示してくれて、かけがえがない。しかし文例だけが問題だろうか。問題は文章としてあらわれたところにあるのではなくて、その向こう側、どのように伝えたいかというところにある。意気込みが違っている。私は意気込みで負けてしまっている。私の苦労して書いたフランス語は、彼女のものに比べるとあまりに精彩を欠いて単調で、だがこれは得意の日本語で書いたとしても変わるまい。
私の文に人をどきりとさせ、うならせるほどの力はあるだろうか。基となる文化のせいにすれば楽だろうが、それでは私の負けになる。使う言葉を問わず、相手の懐に飛び込めるような言葉を探さなければ。そうした覚悟が言葉には必要なのだ。私にこれだけ反省を促しているとは、当の彼女も気付いちゃないだろう。