『アメリ』
イポリト・ベルナール
リトルモア,2001年。
コケットな魅力満載のフランス映画、アメリのノベライズ。その広告が、映画パンフレットの末尾に載っていた。そこにあった、「小説ならではのラストシーンは」という一言に興味をそそられ、この本を欲しいと思ったのは、映画に感動した自分だ、ある意味当然だったといえる。あのさいわいさにあふれたラストシーンが、一体どのように変えられているのだろう――。だが、好奇心は猫をも殺すという。本は実にひどい出来だった。
映画自体が備えていた持ち味が、全部殺されているのはどういうことなんだろう。観客を含めすべてを牽引したスピード感が無い、画面に世界を切り取らんとするぎりぎりの構図に満ちていた緊張感もない。アメリをはじめ、すべての登場人物が持っていた、ひとひらの残酷さ、空虚さ、絶望感も無残に消し去られてしまえば、後には甘ったるく温いばかりの易しさしか残らない。映像こそが持ちうる表現というものは確かにあるし、映画『アメリ』が、その映像の力に支えられていたのも事実だ。だが、だからといって文章が表現する努力を怠っていてははじまらない。文字とは、筆者がそこになにを見たかを語る痕跡である。では、この本の著者はなにを見たのか――僕が見るところ、著者はただ目の前に現れた筋のうわべを、さらりとなでてみただけ。対象に踏み込もうという気迫のかけらもなく、あるものをあるままになぞった、惰弱と横着の作だ。名前を借りたイポリトさんに、泣いて詫びて欲しい。
さて、小説ならではのラストシーンはどんなだったのかというと、わずか一頁にも足りない凡庸な切り返し。直球すぎて読み違えもないだろう上、読むのに一分とかからないものなので、皆さんにはぜひ立ち読みをお勧めしたい。
僕の信条のひとつに、一度手にした本は売らないというのがある。しかしこの本に限っては、処分したい衝動に駆られてならない。けれど、自分への戒めのため、永久に手元に置くとしよう。
評点:1
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