ナショナリズムの克服

ナショナル・アイデンティティという不自由

『ナショナリズムの克服』
姜尚中,森巣博
(集英社新書)集英社,2002年。


 今まで漠然と感じていた違和感がなにであったか氷解した。

 自分の置かれた状況に馴染めないこと、これを単なる人付き合いの苦手と考え、自分はどこにも属したくないのだと考えることで納得していた。非常にへそ曲がりのように思えるこの性向だが、これは森巣氏のいう「アイデンティティからの自由」に繋がってはいないか。多数派に抵抗しながら結局少数の側にも組するを望まないのも、なにかに属すことで自分の場所が決まってしまうのが堪らなく避けたかったからだ。無境界的な場所に暮らしたいという願いがあったのだろう。だから私は本質的にナショナリストにはなりえず、近年の国家崇拝主義が臭うこの国に、ことさら居心地の悪さを感じていたのも無理ないこととであった。だからといって無境界派みたいなものにとらわれるのも厭だななどと考えていて、これなどはやはり天の邪鬼の証拠なのかも知れない。

 本書は博奕打ちで作家の森巣博と東大教授姜尚中の、ナショナリズムをめぐる状況についての対談である。対談という形式ととりわけ森巣博の人を食った態度、肩肘張らない表現が、少々ややこしいナショナリズムとその周辺への理解を促進し、国民国家主義の限界と欺瞞をつまびらかにする、――つまりは偏狭なナショナリズムという虚構を維持する無理と、いずれ解体せざるを得ないそれらから脱し新たな枠組みを模索しようとする可能性までが語られている。こうしてこの人たちの話を聞いていると、普段目の前になにげなく見ていることを見過ごす危険がはっきりとしてくる。見て見ぬふりして多勢に迎合という現状死守の生き方がそのままナショナリズムを育む土壌である。

 そしてなんて簡単だったんだろうと思うのである。国民国家などは結局自身に課す檻にすぎない。それをはねのける心意気と意地を持たねばならないというのに。足下ばかり見ている暇などなかったである。変わるべきは自ら、改めて意気を揚げている。


評点:4+


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公開日:2003.05.06
最終更新日:2003.05.06
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