『夏彦の影法師――手帳50冊の置土産』
山本伊吾
新潮社,2003年。
希代の文章家、山本夏彦若き日に書き留められた日記、そして生涯の手帳五十冊余からの抜き書きが、日付付きでテーマに沿って伸べられている。日常の細々とした記録の端々いたるところに、馴染みの弁舌の断片萌芽がある、氏の人となりが彷彿されてくる、そしてこれまで筆紙に表されることのなかった氏の顔も見えてくる。
年月の浅い読者である私は、浅はかにも山本夏彦を読み誤っていたと気付いていなかった。飄々楽々と世を渡ってきた、地上の苦楽を遠くに眺めて分析加える喰えない親爺と思っていた。外に内に向ける発想と批評の力で、なにごとも軽々いなしてきた人と信じていた。悩み惑いも当然あったと推察まではしたものの、その深さに思いがいたらなかったばかりか、氏のありように羨みさえ感じていた。鋭く乾いた視線と広く暖かな眼差し合わせ持つ複雑怪奇が、なんの波乱もなく自然にできたわけでもあるまいに。氏が青年だった頃、日々空虚と鬱屈に押さえつけられ苦しんで、その事実を知って私は息が詰まった。自分のあまりに愚かであったと今頃知って、私は人の心の広さをもう一度考えなおさなければならない。
戦後の手帳に残された記録は淡々として明瞭、戦前に比べショッキングの度合いは薄い。その時分にはすでに波乱を乗り越えておられたのだろう。だがそこにもやはりにわか読者にはたどりつけなかった氏の別の顔がある。多彩な感情、思うところが手帳には踊っていて、どきりとすることもしきり。だが矛盾変節しながらも一貫する氏の跡形に、見損なうことは一度もなかった。ここにもやはり人の心は広いのである。
小賢しい私は一知半解に満足して得意ぶる悪い癖がある。口達者に批判を受け付けずのらりくらりと、だから時にはこんな親爺に水浴びせられるくらいでちょうどいい。著者こそは実子であるためセンチメンタルが感ぜられ当たりは弱いが、一句一言がピリリと利くのは、夏彦さん流石の一言である。
評点:4
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