グレン・グールドの音楽思想

20世紀後半における音楽受容の一局面

結論 グレン・グールドの音楽思想

 以上、五章にわたり見てきたように、グールドの活動は多岐にわたっている。

 第一章で見た、テクノロジーを駆使し、レコードに自律した作品としての性格を見出そうとしていたグールド、第二章でのレコーディングやラジオ、バックグラウンド・ミュージックに新しい音楽との関わり方を模索していたグールド、孤独を求め、その中に個人を陶冶し芸術のうちに住来することの可能性を信じていたグールド、そしてなによりも先ず、ピアニストとしてのグールド。

 このようにさまざまな相貌を見せるグールドの、その思想もまた錯綜しているかに見える。だが、これらのグールドを繋ぎ、一つにまとめる一本の糸は確実に存在しているのだ。

 それは、音楽自体という言葉であらわされる、グールドが生涯を通し見つめ続けてきた、音楽の表層を超えたところにある、ある一つの音楽の真実である。

 グールドがレコードを制作する際に音楽を切り刻み継ぎ合わせるのも、音楽自体をなによりも重視し、最も望ましいかたちで表すためであったし、テクノロジーに期待したのは、様々な音楽外的な情報、要素に惑わされることなく、音楽自体に出会うことのできる場を、テクノロジーが作り得ると信じてのことだった。

 ならば、このように音楽自体を求めようとするグールド自身の在り方とは如何なるものだったのだろうか。

 グールドはモーツァルトを凡庸な作曲家だとして退け、ショパンやシューマンなどの初期ロマン派のピアノ作品を歯牙にもかけなかった。そのようなグールドの姿勢は、確かに第三章で確認したような、現代の聴取者の自分勝手な側面とうつるかもしれない。しかし、グールドがそれらの音楽を嫌っていると公言し、バッハやギボンズ、シェーンベルク、そしてポップ歌手、ペトゥラ・クラークを愛したのは、彼なりの基準にしたがった評価の結果であり、いわば熟考の後に導かれたものなのだ。真の意味での個人が、自身の人生に必要なものを選択し不要なものは排除していく、このような自身の生活を芸術に昇華しようとする試みを、グールドは自らその五十年の人生で体現してみせたのだ。

 そのグールドの姿勢は、言われているような世捨て人や人との関わりを保てなかった人間のそれではなく、彼の人というものを信頼し、個人の可能性に熱い眼差しをおくるまことに人間的なものなのだ。グールドの真に熱望した音楽の在り方とは、このように人間的、ヒューマニズムにあふれたものにほかならない。

 グールドが推進し彼自身行なってきた音楽の聴き方は、あきらかに一つの大きな音楽の社会を破壊し、音楽の世界を分断してしまうものであるが、それよりも彼の音楽聴の本質は、個人が彼ら自身の生活に音楽を積み上げ、その生活を豊かにし、生活そのものを音楽的体験、芸術となすものであった。

 グールドのキットによる聴取は、一つの曲、それのみに適用されるべきものではなく、様々な物事、そしてもちろん音楽を、キットとして個人のうちに取り込み、それらを創造的働きにより再構成するという、そのような生き方そのもののメタファーとして捉えるべきものだろう。そしてこのような生き方とその目的は、アドルノの批判する、大衆に埋没し個性や能動性を失ってしまった人間をではなく、一人一人があくまでも独立、自律した個人であることを前提としている。そしてその前提たる個人を陶冶し、独自性と創造性にあふれたものとするためのプロセスとして、第四章で確認した、孤独という体験が北というメタファーとともに称揚されたのだ。

 そして彼は、その自身の理論をピアノ演奏という枠を越え、あらゆるメディアを通じ展開した。レコードのライナーノートや雑誌記事といった活字メディアから、テレビ、ラジオなどの放送メディア、それも普通一般の音楽番組の体裁をとるものから、自作自演のドラマめいたもの、そして対位法的ドキュメンタリーにまで到る、多種多様さをもって遂行されたのである。

 メディアを活用することの有利性を知っていた彼は、そこで饒舌といえるほどに自身の理想を語り、著し続けた。そのことはまた、彼に演奏家として以外の顔――思索家で理論家でジャーナリストという――を与えたのである。

 だが、彼の書いたこと、話した内容だけが彼の思想をなすのではない。なにより彼の思想の中核をなすものは彼の行為に中にあるのであり、そしてその行為こそが音楽にほかならなかったのだ。

 彼がピアノ演奏という行為のうちに自己を見出したように、我々もまた聴くという行為のうちに自己を見出し得るかもしれない。そして、彼の演奏は、その強烈な個性の故に、我々に聴くという行為を意識させずにはいられないのだ。

 グールドのあまりに反伝統的、反因習的な演奏は、彼の他との違いを求めた結果であり、自己のオリジナリティ、アイデンティティを強く求めた結果であるが、かつてよく知られた曲の新たな側面に光を当て、未だ知られていない様相をあらわにさせるというその演奏の異化作用が、我々に、あえてまたその作品の根源に立ち帰る決意――創造的な聴取――をするようにしむけるのだ。確かにグールドの誰とも違う演奏は、消費社会においての差異という、消費のための価値記号として働くという側面も持っている。しかし彼の演奏にはそれだけではない、聴取という行為を復権させ、その聴取という行為のうちに自己を見出せと呼び掛ける、行為者としてのグールドの熱い表明としての思想が漲っているのだ。

 彼の音楽が彼の思想そのものであり、彼の思想は彼の音楽という営為のなかに満ち満ちている。そして彼の人生もまた音楽そのものだったのだ。

 彼の言った「生活自体が芸術となる」1という言葉の示すとおり、グールドの人生は芸術として、そして思想として結実しているのだ。


結論注釈

1 グレン・グールド「レコーディングの将来」野水瑞穂訳,ティム・ペイジ編 『グレン・グールド著作集2――パフォーマンスとメディア』(東京:みすず書房,1990年)所収【,171頁】。


参考文献、参考資料

『グレン・グールドの音楽思想』表紙へ

音楽あれこれへ トップページに戻る

公開日:2000.08.19
最終更新日:2001.09.02
webmaster@kototone.jp
Creative Commons License
こととねは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 継承 2.1 日本)の下でライセンスされています。