1973年11月21日生れ、京都のはずれに生れ、京都のはずれに育つ。京都のはずれ在住。
さすがに生まれたときにはテレビがすでに家にあった。カラーテレビである。ダイアルをがちゃがちゃ回してチャンネルを変えるというところに歴史と味わいがあった。末っ子でわがままだった私は、ほぼこのテレビを独占していた。テレビっ子という言葉が現れた時代、その真っ直中に育ったのが我々の世代だったろう。
今日はテレビが生まれて五十年という。なので、そのテレビとともに昔を振り返ってみたい。思い出すまま徒然につづるので、時間が前後することは容赦願いたい。歴史的叙述を目指しているわけではなく、テレビ番組から私という人となりが見えてくればよかろうと、それだけが理由の昔語りである。
テレビヒーローに憧れること、今の子供も昔の子供も変わりがない。その例にもれず私もヒーローが好きで、ウルトラマンや仮面ライダー、ゴレンジャーなどの特撮ヒーローものには夢中であった。とりわけウルトラマンが好きで、お気に入りはセブンだったが、写真に写るときはスペシウム光線、つまりウルトラマンの格好をしている。エメリウム光線では格好がつかない、アイスラッガーならなおさらである。それでスペシウム光線だったのだろう。ウルトラマンは80、ザ・ウルトラマンと続いてそれ以降は見ていない。
ウルトラといえば、昔NHKが『ウルトラアイ』という番組をやっていて、これもお気に入りだった。「ウルトラ」とは言うが、円谷プロには関わりがない。科学番組であった。司会は山川静夫アナウンサー、氏も私のお気に入りだった。
小学校の頃だったろうか。どんな番組が好きかと問われて『ウルトラアイ』と応えたときに、まだそんなの見ているのか子供っぽいとあざ笑われたことがあった。なに、『ウルトラマン』のなにかに間違えられたのだろう。子供ながらに自尊心の傷つくのを感じたが、別にウルトラマンを嫌いにしていたわけでもない。ぐっと黙って、謂れ無き非難を耐えた。
仮面ライダーに関しては少々複雑である。純粋に子供の頃に見ていたのは、アマゾンやストロンガーであり、だが子供時分から偏狭だった私はそれらを少し色物的なものとして見ていたように記憶する。やはり仮面ライダーはバッタ怪人でなければならん。オーソドックスを愛する私には、少し時代の下がって登場したスカイライダーやスーパー1のほうが仮面ライダーらしくって好ましかった。だが今から思えば、スーパー1の「五つの腕を持つ男」という設定なぞはまさに色物である。子供には子供だましでいいのである。あの腕が変化するという豪華さに私はまいっていた。
スカイライダーといえば、その放送していた年の誕生日に、近所のスーパー屋上にライダーがやって来たのだった。誕生日なので、パーティーなんぞをやっている。皆で繰り出そうということになって、ライダーショーを見た。ショーの内容は覚えていない。だがショーが終わってからの、ライダーのサイン入り色紙を五百円で販売というその時のことは忘れない。
一声掛かるやいなや大人といわず子供といわずライダーに群がって、サインをねだった。生意気な子供であった私はライダーの正体を正しく理解しており、サインも欲しいと思っていなかった。にもかかわらず、周囲の空気にのぼせ上がって群がる人の中に五百円札を高く掲げて五百円ならありますと声高に言ってしまったものだから、いまだに家にはスカイライダーのサイン色紙があるのである。おそらく最初に群がったのはサクラだろう。してやられたが、今となっては思い出である。
調べてみればスカイライダーの放映は1979年10月から一年間である。とすれば六七歳の頃だろうか。仮面ライダーの仕組みは分かっていたが、サクラに関してはよく分かってなかったと思しい。
ゴレンジャーが好きだった。近所に親が甘くてなんでもおもちゃを買ってもらえる友人がいて、そいつの持っていたバリドリーンが格好良くってうらやましかった。翼が七色に開くのである。いやゴレンジャーだから多分五色だろう。どうにもださく安っぽいデザインだが、子供相手にはこれでよかったのである。
ゴレンジャーのシリーズはサンバルカンを最後に見なくなってしまった。いや、ライブマンからカクレンジャーまではいい歳をして見ていた。だがその見方はまったく違うのだから、サンバルカンが子供時代最後の戦隊ものといってよいだろう。なぜ見なくなったのか。それはある回に出てきた怪人が子供心に恐ろしくって、もうこれを見るのはやめようと心に誓ったのである。
それはこんな怪人だった。
胴体の真ん中に人の顔型のくぼみがあって、スタンプになっているのである。顔をその型にはめ込まれてしまうと、顔色が濃紺になり悪人にされてしまうのである。子供の周りの人が次々と悪人にされて、その濃紺の顔が恐ろしかった。親兄弟や先生、警察官も悪人にされて、もし自分の身の回りの人間がこんなことになったらどうしようと、ありもしないことだが恐れた。夜、自分の前を歩く大人の顔色を想像しては勝手に恐れた。夜中親の顔を見て、それが普通の顔色をしているのに安心をした。
あまりの恐ろしさに子供の私はそこでチャンネルを変えてしまって結末を知らずにいたのだが、それを高校生だったかのときに再放送で偶然見ることができた。恐ろしくちゃちで、どうしようもない単純さだったが、昔の私はそれを怖れたのである。知識はあったが、中身はやはり子供であった。ロボのプラモデルを買うほど好きだったサンバルカンをもう見ないと決めさせたのだから、よっぽど恐ろしかったのだろう。なんでもないことを怖れるところは今も変わっていないが、その頃の決意の強さは今はもうない、どこかへ行ってしまったらしい。
小学校に入る前かその後か、仮面の忍者赤影はとにかく我々のヒーローだったのである。筋はまったく覚えていないが、赤い仮面舞踏会にでも出ようかというマスクをつけた赤影が格好良かった。少し年配の白影は飄々として普段はどこか不真面目な様子だが、ひとたびことが起こるとがぜん頼りになるおやじだった。そして青影はこましゃくれた子供で、我々はおそらく彼の視点を頼りにしていたのではないだろうか。手裏剣を打ち、大凧で空を飛び、忍術というよりむしろ魔術であった彼らの超人的働きに、子供たちは皆釘付けだった。
そういえば、仮面の忍者赤影はリメイクされてアニメになっていたはずだ。一度だけほんの少しだけ見たことがある。だが昔の実写のものとは比ぶべくもない。むしろ幻滅する出来だったので、存在しないものと決めつけて、もう二度と見なかった。決して昔の赤影が出来の上で素晴らしかったとは言い切れないが、昔のものこそが本物である。リメイクがオリジナルを超えることはないのである。
小学校の高学年頃には怪傑ライオン丸が流行っていたが、その時特撮に興味を失っていた私はそれを見ていない。特撮に興味を持つのは、そういった趣味を持つ友人の出来た中学高校以降で、仮面ライダーBlackやその続編、ライブマン以降の戦隊ものはよく見たが、子供の頃のようなわくわくする感じはさすがになかった。正しいテレビ番組とのつきあい方とはいえないだろうので、このことは書かずにおこう。
今の若い人にはピンとこないかも知れないが、私が子供だった時分はまだアニメーションという言葉が一般的ではなく、もっぱらテレビ漫画といわれていた。だから今でもアニメという表現には抵抗があって、だが漫画と言うのもはばかられる。そういう中途半端な世代に私は含まれるのである。
アニメという用語は、テレビ漫画が小さな子供以外に向けられるようになって、はじめて世間に定着した。だから第一次アニメブームを担った宇宙戦艦ヤマトを、その時代のヤングはアニメと呼び、それ以外の世代――子供やその親以上の人たちは、依然漫画と呼び表していた。
私が漫画を弁別し、動画で表されるものをアニメと呼ぶようになったのは中学生以降のことである。関西では読売テレビが春夏冬の学期休みに『アニメ大好き』という特番を組み、当時のアニメファンがそのラインナップ発表を心待ちにしていたのは、以前言いっ放し八百字エッセイに書いた通りである(「戦え!!イクサー1」:あいつ、元気にしてるかなあ)。『アニメ大好き』をはじめて見たのが『戦え!!イクサー1』第二話であったのだから、第二話発売の1986年以前の私にはアニメという語彙は知識としてはあっても、ほぼ口にすることはなかった筈である。
アニメを漫画として見ていた時代は、藤子不二雄が全盛であった。彼らはまだ分裂しておらず、F、Aという区別はなかった。ドラえもんをはじめとして、怪物くん、忍者ハットリくん、パーマン、おばけのQ太郎、エスパー魔美、プロゴルファー猿、チンプイ、いちいちあげればきりがない。これらが日曜朝、そしてゴールデンタイムを半ばほど埋め尽くして、子供はこれらに夢中だった。
今では想像も出来ないだろうが、藤子不二雄の名を冠した一時間番組があって、確か火曜の夜七時からであった。一時間の枠内に三タイトルが放映されていて、このほかにも金曜夜にはドラえもんが、日曜朝ならQ太郎であろうかが放送されていたのだから、当時の藤子不二雄の人気が伺い知れるだろう。もしかしたら月曜夜七時にも藤子不二雄ものが放送されていたかも知れない。とにかく、ものすごい人気であった。
藤子不二雄作品の中では、私はドラえもんが好きである。はじめての出会いは漫画本でであったが、私が幼稚園児だった時代にテレビアニメも開始されている。当然私はそれを見ていた。
当初テレビ漫画ドラえもんは日曜の朝八時半に放送されていた。当時の私はドラえもん見たさに、日曜だけは朝八時に起きたのである。一般家庭にビデオなぞなかった時代であり、見たい番組があれば、その時間にテレビ前に着いていなければらなかった。今ではそんな早起きは出来ないが、その当時の私は日曜日には自然と目を覚ました。学校のある日には起きられないのが、日曜だけは六時だとか七時に目を覚まして、親にもっと寝ていろといわれたものである。なぜ早起きをして文句を言われるか解せないが、とにかく日曜日は別格であった。
ドラえもんの放送時間は日曜朝八時半から九時半へと移り、その後は夕方の帯番組になったり紆余曲折しながら、金曜日のゴールデンタイム、夜七時に落ち着いて久しい。
私の人格形成の大半はドラえもんを筆頭とする藤子不二雄漫画に負っている。今得ている知識の多くが初期ドラえもんに由来し、感動するということも、シニカルな生き方もドラえもんからだったかも知れないくらいである。
あれだけの隆盛を誇ったドラえもんである。同様の体験を共有する同年代は数知れず、感動した話、はじめて見に行った映画、その例をあげれることはたやすい。春夏暮にはドラえもんであった、特番に限らず年中がドラえもんであった。家にビデオが導入されたのも、習い事がためにドラえもんが見られなくなるとごねた私のためにであった。親にとってはビデオ導入のよい口実だったのかも知れないが、とにかくドラえもんが私の生活の中心であったのは疑いもない事実である。
ドラえもんは確かに偉大であったが、決してドラえもん一色だったわけではない。テレビっ子世代である。テレビ漫画の数々を思い出すことが可能である。
ロボットものは昔も今と変わらず大人気であった。機動戦士ガンダムは再放送のさらに再々放送くらいで見たはずである。それ以前は、マジンガーZや鋼鉄ジーグ、ゲッターロボ、勇者ライディーン、大空魔龍ガイキング、ダンガードA、コン・バトラーVといった巨大ロボットの時代である。家にはソフトビニール製の巨大マジンガーが居て、さらにはUFOロボグレンダイザーや大空魔龍の超合金があった。なぜガイキングでなく大空魔龍だったのかは謎である。
当時のロボットの必殺技の定番はロケットパンチであった。肘から放たれた腕部がロケット噴射で敵を殴りつけるというギミックがとにかく子供心を熱くさせ、当然超合金などおもちゃにもそれが装備されている。二の腕のスイッチを押すと、ばね仕掛けでパンチが飛んでゆくのである。そのパンチをよくなくした。どこの家に行っても腕のないロボが居て、よくて片腕、両腕がないのも普通であった。
なお家にあったという巨大マジンガーもロケットパンチが失われていた。ちなみにこれはレア物で、現存しているものはおしなべて高値がつけられている。レア物という概念やおもちゃをコレクターグッズと見る考えはまだなかった。それゆえ古くなれば簡単に捨てられてしまったし、そもそも子供のおもちゃである。五体満足で残ると考えるほうがどうかしている。現存すれば高値がつくが、その可能性はほぼ皆無である。当然家にそれら超合金は残っていないのである。
超合金といえば、ゲッターロボにも超合金があったのである。ゲッターロボというのは三機の戦闘機が合体して三種のロボットになるというコンセプトが売りで、リメイクも存在するため今でも有名な部類に入る。そのオリジナルがゲッターロボとゲッターロボGである。
これらの変形合体はふるっていた。現在は玩具化することが前提であるため変形ギミックは辻褄をもって考えられているが、当時はそんなものははなから考えられていなかった。ゲッターロボの変形は粘土細工かすわバーバパパかというもので、理屈もへったくれもなかった。その戦闘機の超合金が売られていたのを、おそらくデパートでもらってきたカタログを眺めて私は知っていたが、ついぞ手にすることはなかった。合体などできるはずない代物だが、合体するんだろうかするのなら一度見てみたいものだと、カタログを見て溜息ついていた。当時おもちゃは高価で、簡単には買ってもらえなかったのである。
実際に合体変形する理不尽ロボとしてダイアポロンをあげておこう。アメフトスタイルの巨大ロボで、私はその主題歌の一部を今も歌うことができる。つまり好きだったのである。この超合金を近所の友人が持っていた。実際に合体したはずである。調べてみれば、やはり合体したのである(合体前の雄姿は大宇宙地下秘密の兵器庫で見ることができる)。しかしこんなに変な奴等だったろうか。もっとかっこいいと思っていたのだが、とかく子供というものはイマジネーションの生物である。勝手に格好良く思い出を変えることもさらには自分独自の設定を遊びの中で作り上げることも自在である。おそらくその類いなのであろう。好奇心は猫をも殺し、後悔は先に立たない。見なければよかったかも知れない。
機動戦士ガンダムは、ひとつ上の兄貴分に連れられ、その友人宅に上がり込んでみたのがはじめであった。その集まりは「チューが見られる」というもので、当時幼かった私にはそんなものは興味の外だったが、ひとつ学年が上ると随分と興味が変わるようである。つまりその日放送されていた回は、ミライ・ヤシマとスレッガー・ロウのキスシーンのある第36話「恐怖!機動ビグ・ザム」であったと知れる。これが何度目の再放送なのかは知らないが、この後再びガンプラブームが訪れ、ガンダムの再放送も何度もされる。
私のガンダムの記憶はプラモデルにまつわるものが多い。伯父のうちに遊びに行った夏、商店街の景品でもらったリアルタイプ・ザクがはじめてのガンプラだった。爪切りでパーツを切り離し、附属のセメダインで組み立てた。プラモデルは超合金と違い安く買うことができる。凝ったものになればそれなりの額にはなるが、それでも超合金よりは安かったのである。
ガンダムを中心として少しずつプラモデルを集め出すのだが、その中にはバイファムやマクロス、モスピーダのものも含まれていた。だがそれらはほとんど見ていない。ロボットに引かれ、プラモデルを買っただけ、ロボットが好きなのである。ガンダム以外で見たことがあるのは、戦闘メカザブングルと機甲創世記モスピーダぐらいではないだろうか。
モスピーダは数年前再放送されているのを見て、当時ならではの設定に幻滅した。友人にその傷心について話せば同感だという。その友人もガンダム好きで、ひいてはガンダム系列のロボット好きという同類である。
マクロスは人気があるのは知っていたが、テレビシリーズは見たことがなく、今もなおそうである。後年テレビで映画『愛・おぼえていますか』を見て、アイドルが世界を救うという設定に度肝を抜かれた。ラブ&ピースのアイドル版である。思い返せば、ガンダムもラブ&ピースである。イデオンも、見たことはないがその筋を読めばラブ&ピースである。すべての人はわかりあえるのである。六十年代アメリカに発したカルチャーが意外なところに受け継がれていると思うが、その時代に青春を送ったものが作ったのだからこれは当然である。そうして我々もラブ&ピースの洗礼を受けているわけである。
ガンダムの流行は何度も繰り返すこと、周知の通りである。本放送時こそは打ち切りの憂き目にあったガンダムだが、ブームを繰り返すうちにどんどん神格化されていくのをじっと見てきた。ガンダムの亜流の類いは山とあるが、後年にはガンダムのシリーズが亜流に劣る出来になって、もうガンダムは駄目だと思った。
亜流にもいろいろある。ドラグナーやレイズナーも亜流と言っていいだろうか、エルガイムはどうだろう。ほかにダンバイン、モスピーダ、マクロス、バイファムと、これらは亜流というよりもむしろ系列、傍流だろう。ガンダムによって打ち立てられた人の乗り込む兵器としてのロボットを軸とする形式に拠りながらも、独自の要素を持って展開されたあるいはしようとした跡が見えるのである。だが時代が下ればいよいよ悪い。ガンダムの名を冠した、どこがガンダムかという企画が山と生まれるのを見て、もうこの業界は衰退しているのだろうと感じた。なに企画に自信があれば、ガンダムとは関係なく出せばいいのである。それをどこに関係があるかも知れぬガンダムのシリーズとして出すのは欺瞞である。ごまかしである。すでにガンダムは作品としての力を失い、その名だけで売れる商材と化してしまっているのである。
ガンダムの続編としてのΖガンダムは、小学校から中学校へ上がるころに見ていた。大人びた筋でありその年頃の我々によく理解できたとは思えないが、目白押しのメカはやはり人気であった。その翌年にはΖΖガンダムが作られる。スーパーヒーローもの然とした作風に、失望するものあり擁護するものありと賛否両論であった。思えばガンダムの商材化はこのΖΖガンダムに兆すのである。ガンダムの名だけで売れることを思い知るのである。
ΖΖ以後にテレビに現れたガンダムの最初はVガンダムであるが、その間六年の開きがある。Vガンダム放送の1993年はすでに不況下である。不況となればスポンサーはいよいよ金を出し渋り、失敗は許されないのである。当たる保証のある企画を出さねばならない。こうしたわけで、ガンダムという名前に期待されるのである。
このやり口はガンダムだけではない。あらゆるジャンルに見られた。
セーラームーンは1992年。その後類似のものが大量に出現したことガンダムに変わらず、セーラームーン自体が五年にも及ぶロングランを記録すること、似非ガンダムがシリーズを重ねたことに同様である。
ライジンオーは1991年。これも半シリーズ化したが、続編を作るのがとにかく下手なサンライズである。二作目のガンバルガーは見事に外し、ガンバルガーの事実上の作者をして「平成のカルト番組」と言わしめたが、私はこれが好きだった(DVDが出たら買おう。きっと出ないだろうから言っているのである)。
サンライズのシリーズものと言って忘れてはいけないのは勇者エクスカイザーである。これは1990年。番組放映中にバブルは崩壊するが、不景気の実感はまだ世の中になかった。平成二年である、私は高校二年であった。前年のライガーの後番組として始まり、おそらくヒットしたのであろう。勇者シリーズと呼ばれるシリーズとなって、八年間続いた。
エクスカイザーは、一年を通してアニメを見るということを意識したはじめの番組だった。それ以前は、適当に抜けがあっても気にしなかったし、物語内の出来事と現実の時間軸の関連にも気に留めていなかった。
関連というのは、夏が終わるころに主役ロボットが交代し、年末に最終形が提示されるなどのことである。これはロボットものにかぎらない。つまりは商戦時期をにらんでいるのである。二八は売れ行きが悪い。そして十二月にはクリスマスがある。この時期にタイミングよく消費対象をリリースするためにテレビ番組はあるのである。だから八月及び十二月には必ず山場があり、王道のパターンとなるのだ。
そういう見方をすると、なかなかテレビというのはいやらしい。エクスカイザー以後の勇者シリーズは件のパターンをたどりつつ、商材――登場するロボットの数を増やしてゆく。不況になればなるほど露骨である。ロボットが増える、これは子供を対象とする宣伝である。美少女美少年キャラクターを、その時々の流行りの消費記号付きで創出する。子供は自発的に使える金額に限りがある。だからマニアという金に糸目をつけぬ輩を対象にするのである。
勇者シリーズに限らずガンダムでも同じである。美少年五人組、人気声優、ロボットが盛りだくさん。あえて名前は伏せるが、これらが出たのはシリーズの爛熟期であった。もう盛りを過ぎて、露骨な売り方が見え見えである。だがそれでもファンはつくのである。
断っておくが、こういった戦略が悪いといっているわけではない。すべてが経済活動の上に成り立っている近代以降は、あらゆる手段で消費をあおらねばならないのである。その点、テレビアニメ界の動き、マニア向け市場の動向は正しかったといえる。ただ、なりふり構わなかった。あたかも焼畑農業のごときである。
不況が深刻の度合いを増すに連れ、発売される関連商品の点数も増えに増えた。ビデオ、LDが出るのは不思議ではない。キャラグッズ、サントラ、ムックの類いも定番である。だがドラマCDや登場キャラクター毎のCDが出るころにはもういけない。OVA展開される、漫画化される、映画化されるその度に新キャラ、新メカ、そしてそれらのグッズ、サントラ、ムックが出る。ゲーム化もされる。その数やもう半端ではないのである。限定品商売が憎かった。初回限定版と通常版が、違う装丁で出る。マニアなら両方を買うのだろう。下手をすれば、初回限定品が二種三種と用意されている場合もある。マニアならすべてを揃えるのだろうか。版違いを売るという点では、まだ初頭の版の寿命があるうちに、愛蔵版を出しカラー版を出し文庫版を出すというのも如何だろうか。そのすべてに、それぞれ異なる新フィーチャーが加えられることもはや当たり前である。マニアなら、いわんやここまで来ればさすがに揃えきれるものではない。
だが版違いくらいならまだ甘いものである。極め付けはトレーディングカードであった。これはあたかも博奕である。あまりにも金のかかりすぎるカード集めを揶揄し、カード破産という言葉も出来た。このころにはもう、マニア諸氏も疲弊しきって追いかけるのさえ苦痛になってしまった。
現在のマニアはどこかで一線を引いて、収集できない苦痛と出ていく金傾く経済を目の当たりにする苦痛を天秤にかけて、破綻する寸前までを耐えるのである。だがこうして市場がやせ細った後に業界はどうするのだろう。次はどこから吸い上げるというのだろう。
少年ジャンプに代表される少年誌連載の漫画がテレビに登場したのはいつからなのか。私がはっきり覚えているのは、Dr. スランプ アラレちゃんである。1981年からの放送だから、私は八歳だった。水曜日七時からの放送、アラレちゃんはフジテレビ系で、このときの裏番組が日本テレビ系の鉄腕アトムである。はっきり覚えているのには理由がある。放送開始の際に、アラレちゃんはお色気要素があり扇情的であるとして見るのを控え、手塚治虫御大のアトムを見ずしてなにを見るのかと、私は頑なに鉄腕アトム派だったのである。
アラレちゃんはアンドロイドであり、それ以前にくるくる眼鏡の女の子である。そのアラレちゃんを蹴ったのであるから、その時分の私は眼鏡に興味がなかったと思うのは早計であり間違いである。私の眼鏡好きは幼稚園児時代に発している。幼稚園は女子高の敷地内にあったため、通園途中は女子高生と同道することになる。その時に眼鏡の女子高生が居ると嬉しかったのを明確に記憶している。その当時は幼稚園小学校低学年に眼鏡をかけるほど目を悪くしている子はほとんどなく、そんなわけで同年代など眼中になかった。幼時から年上が好みであった。
この際だから言っておこう。眼鏡への愛着はドラえもんののび太に由来するのである。のび太が僕にとってのヒーローであったこと、すでに話した通りである。僕はのび太になりたかった。頑なでいい子という縛りから自由でなかった僕は、のび太に自由を見たのである。だが僕はのび太にはなり切れず、のび太への憧れはフェティッシュの方向へ向けられた。眼鏡である。のび太のかける眼鏡に僕は自由の象徴を見たが、私とて当時の子供である。両眼1.5の視力に眼鏡は必要なく、そして眼鏡への愛着は異性へのそれに再び振り向けられることになる。
このプロセスを経て今の私はあるのである。むしろこの操作は意識的に行われたのだった。昔からやりにくい子供だったろうと思う。
さて頑なな私はアラレちゃんではなくアトムを選んだ。だがアラレちゃんの人気はうなぎ登りで、アトムは途中で打ち切られ、仕方なく私はアラレちゃんの側に移っていった。見ればやっぱり楽しく、私はアラレちゃんが好きであったが、それは番組として好きだったのであり、キャラクターに対する特別な愛情は持たなかったこと、健全な少年であった。
アラレちゃんが終わってしばらくして、美少女アンドロイドものというジャンルが漫画アニメの類いで人気となった。エロ混じりのそれらに眉をひそめたいけ好かない子供が私だったが、それでも見るには見てたのだから人を責めるのはお門違いである。後年高校に入って友人に、あの美少女アンドロイドものの元祖はアラレちゃんではないだろうかと話したときである。自分としてはかなり自信のある説だったが、友人からはそんなわけがあるかと一笑に付された。悔しいのであるが、実際のところはどうであろうか。
1984年には北斗の拳がテレビ漫画化された。これも一世を風靡したのであるが、例によって私はこれを見なかった。残虐な暴力漫画であるからである。木曜日の夜七時半、フジテレビ系だった。私は裏番組の日本テレビ系ディズニー劇場を見たのだった。
北斗の拳はその描写が問題視されていたが、子供たちは問題もへったくれもなく、面白いものが好きである。クラス中の皆が北斗の拳を見ていた。
あるとき、教師が北斗の拳を見ているかと聞いたことがあった。手を上げなかったのは私ともう一人だけであった。もう一人というのが典型的なやんちゃ坊主であったため、私をはじめクラスの皆が驚いた。彼もディズニーを見ていたのである。彼と私のふたりで、ディズニー面白いじゃないかとクラス全員に説いてはみたが効き目はなく、自然我々も北斗の拳側に移ることになる。なに、ディズニーが打ちきられたのである。野球や木曜スペシャルの類いでディズニーが休みになることが増え、知らぬ間に毎週が木曜スペシャルになってしまっていた。終了マークも付かずに消えたのは、よっぽど北斗の拳に水をあけられていたせいだろうか。とにかくディズニーはケンシロウに負けたのだ。
以上を見れば、私がいい子であること明白である。あるいは根っからのマイナー嗜好、裏道歩きだとも言えるだろうか。今私はディズニーが嫌いなのであるが、これはディズニーが定番となったからではない。裏道を選って歩いているわけではないのである。
子供の頃には名作ものと言われるジャンルがあった。だが意外と私は名作ものを見ていない。
フランダースの犬だとか母をたずねて三千里は見ていた。ムーミンも好きだった。オリジナル志向の私は後の楽しいムーミン一家は一度も見なかった。同様にリメイクされたフランダースの犬も母をたずねて三千里も見ていない。
ともあれ、このあたりの名作ものは見ていたのになにを見ていなかったかというと、ハウス名作劇場をである。小公子小公女は見たことがない。フローネやポリアンナも名前しか知らない。赤毛のアンは名作と聞くので今となっては見てみたいが、これも一度も見ていない。若草物語はナンとジョー先生をかろうじて見ているにすぎない。つまり、本当に子供だったころにはこのシリーズを見たことがなかったのである。
この空白に理由はないのであるが、強いて理由を見出すとすれば、言うほど昔の私は漫画を見てなかったのである。見るには見たが、見たのは藤子不二雄ばかりだったような気がする。ハウス名作ものはその存在を知らなかったのである。
私の子供の頃は、テレビがとかく敵視されていた。「読書増やしテレビ減らし」というみっともないネーミングの取り組みが折々に実施され、どれだけテレビを見なかったか、どれだけ本をたくさん読んだかを表に書きだして提出させられたりしたが、こんなものは私にはどうでもよかったのである。なにせテレビも本も楽しみの上では差がなかったのだから、テレビがなければ本を読むだけなのである。いや、テレビがあろうと本は読んでいたのだから、迷惑以外の何者でもなかった。
私の育ったのはこういう余計なお世話というほかない取り組みがあった時代で、今ならさしずめゲームあたりが槍玉だろうか。インターネットに熱中したとしても、コンピュータは必須のスキルと見て止めるどころか奨励するだろう。だが本も漫画もテレビもゲームもコンピュータも、楽しみの上では同等である。今は読め読めとうるさく言われる小説も、明治の頃は読んではならんと止められていた。結局はものの限度を知れということに過ぎないのなら、どれかを差し止めどれかを奨励するというのもおかしい。放っておけばお腹いっぱいになるのである。そうなったときに、腹八分目を教えればいいだけと思うが、とかく世間はなにかを害毒と決めれば、一瞬一秒も触れさせてはならじと騒ぎ立てる。辟易するのである。
昔は児童文学を原作とする漫画がたくさんあった。ニルスのふしぎな旅は私が小学生の頃に人気があって、友達に赤山というのがいたのだが、そいつのあだ名がアッカ隊長であった。アッカ隊長というのはニルスをともに旅をする雁の群れのリーダーの名前である。
このラストは泣いたのだった。今でも思い出して泣けるのである。子鹿物語も泣いた。あまりの残酷なラストにショックを受けた。昔の漫画には、明確の終わりというのが用意されていて、最終回にはきっと泣かされたりしたのである。
ところがいつの頃からか終わりが明確に描かれなくなってしまった。最終回は最終回でも、今までの生活は同じように続けられるのでありましたと言った、どこか煮え切らないものが多くなった。
すべての物事には始めがあり終わりがあるのは当然で、我々子供は漫画の最終回からも終わりが必ず訪れることを学んだように思う。それがなくなったのは、死が隠蔽されるようになったのと関係あるのだろうか。死の持つ理不尽さが表面に出なくなって、死が簡単になってしまったと感じる。今の漫画やなにかで見るほどに、簡単に人の死んでしまうことはなくって、それでも人死にが出たときは事件のように扱われた。
子供には世の中の理屈を分かっていないところがあって、好きな番組は終わることがないと思っているところがある。それが終わるのだからやっぱりショックだった。漫画という虚構を相手にしながら、現実と同じくらいの、文字通り胸の張り裂けそうな思いというのを体験した。別れにしてもさばさばと彼らを送ることはできず切実に悲しんだ。それだけに死や別れを思うと恐ろしくて仕方がなかったのである。
今はどうなのだろうか。我々の世代は感傷の世代だったが、私の子供時分得たような大げさな感傷を、今の子供も得ているのだろうか。
昔は名作が多かったといえば語弊があるが、子供の頃は漫画相手に本当に一喜一憂し、そうして得た感動感激も今の比でなかったように思う。それはあんたが大人になったからだという意義申し立てもあるかも知れないが、昔の漫画は今のものに比べ何倍もエモーションが大きかった。それはどんなにちょっとした漫画でも同じ、ギャグ漫画でも同じだったのである。
ハクション大魔王というのは、どたばたの漫画であった。子供の頃の私はこれが好きだったが、残念なことにその最終回を覚えていないのである。だが母親が言うには、あの最終回は忘れられないという。私が大泣きをしたのである。後から仕入れたあらすじは、簡単に言うと魔王がもう二度と人間界に来られなくなるというのである。次に壷に帰ると、それが今生の別れになるというのである。くしゃみをすると魔王は壷に帰ってしまうから主人公カンちゃんは必死でくしゃみを我慢するのだが、それでも別れの時は訪れてしまう。この避けられなかった別れというものが子供心に辛く、別れの悲しさを一身に引き受けてしまったのだろう。私は大泣きをしてしまったという。
この手の思い出を持つ人は多いはずである。人によればサリーちゃんであろう。アッコちゃんはどうだったろうか。新しいところで言えば、ミンキーモモの交通事故ラストは世間に衝撃を持って受け止められたそうである(悲しいかな、私はこれを知らない)。なににつけ異世界からの訪問者ものは最後に今生の別れを内包し、与えられた異能は奪われることで終結する。だが昨今のものは別れがあったとしても紋切型であり、起こることが起こるように描かれているだけに感じることもあり、最終回にこそそれまでのすべてが報われると考える古い私には、逆にその描かれない最後が悲しいのである。
タイガーマスクの最終回も印象深い。ドラえもんの六巻も泣けるのである。フランダースの犬などは言うまでもない。昨今のものはどうだろうか。といえばなにか最近の最終回に不満ばかりあるというようだがそうでもない。勇者シリーズ当初の数本は鮮やかで名作だったと思っているし、ガンバルガー、ヤダモンのラストもそうではなかったか。探さずとも印象的なラストは確かにあるが、きちんとした終わりが描かれないものも多くなったのは確かなのである。特に人気のものにそういう傾向は多いと感じる。続編を作るためかと疑えば疑心暗鬼だが、すっぱりと終わってくれないと後ろ髪を引かれるのである、どこか落ち着きが悪いのである。あきらめ悪い私のような人間のためには、きっちりと話のかたをつけて欲しいと願うのである。
当時の子供の心を掴んだ番組にタイムボカンシリーズがあった。タイムボカンから始まって、ヤッターマン、ゼンダマンなどと続きイタダキマンで終わる長寿番組であり、今もなおファンが残って語り草になるところはまさに一世を風靡したと言ってかまわないだろう。
もちろん私もこのシリーズのファンであって、毎週の放送を楽しみに見ていた口である。独特の言い回しやギャグは当時子供だったものに少なからず影響を残しているに違いなく、ポチっとな、今週のびっくりどっきりメカなど、覚えやすく口にして小気味いい言語感覚は今も色を失っていない。シリーズを通して出演していた三悪人(という言い方は嫌いなのだが)ドロンジョ一味がまたいい味をしていて、テンポいいしゃべりとその声の響きは今も耳の奥に残っている。こういう人は多いだろう。ドロンジョ様のやっておしまいっなどは実に素敵だ。子供の頃はヒロインの味方であったが、今となってはドロンジョ様のファンなのである。
このシリーズに関しては、新番組が始まるたびに去年の方がよかったと思うこと毎年の恒例であった。一年をかけてその年々の設定、登場人物に馴染むのである。それが刷新されるものだから、毎年決まって去年のほうがと思う。ドロンジョ一味はキャラクターこそは変わらないが、設定名前が毎回違う。去年までのほうがよかったとやっぱり思う。後を引き摺るたちなのである。
しかし最初は違和感でいっぱいだった新番組も、一月二月と見ているうちに慣れて馴染んでしまうのも毎年である。ずっと昔からの馴染みみたいな顔をして見ている。愛着も出てくる。すっかり贔屓になってしまうものだから、翌年もまた去年のほうがと愚痴るのである。しかしその愚痴もわずか数ヶ月、また馴染むを繰り返すことこれも毎年である。
タイムボカンは見ていたはずなのだが、物心つく前の放送だったらしく、どうも記憶に残っていない。対してシリーズ第二作のヤッターマンはとにかく人気があったもんだから再放送も何度もされて、僕にとってはヤッターマンシリーズという趣である。子供の頃は、タイトルについた「タイムボカンシリーズ」のタイムボカンというのがなにか分からず、ひたすら不思議であった。
水炊きを取り分ける陶製の碗で、円い一方にちょこっと出っ張りが出ているものがある。正しくはなんというかは知らないのだが、これをうちではその形から見てドクロベーと呼んでいた。円に小さな角形がついて、見ようによっては人間のどくろに見える。だからもってドクロベー、ドクロベーというのはヤッターマンのドロンジョ一味をさらに上から操る黒幕であって、名前の示す通りどくろの形で登場していたのである。いかにヤッターマンが当時の暮らしに浸透していたかが知れるだろう。ヤッターマンが終わって以後も、ドクロベーの碗はそのままに呼ばれ続けていた。
ヤッターマンのシリーズはその年ごとに思い入れがそれぞれあって、話せばいつまでも終わらないから、このへんで止しておこう。
昔は漫画の再放送をする枠というのが大抵どこの局にも決まってあって、昔人気のあった番組を繰り返し繰り返し放送していた。ガンダムなんかはまさにその類いで、夕方の五時だったかくらいの時間に、連日放送していたような覚えがある。その後テレビ朝日はアニメの再放送をやめ、今では京都テレビやテレビ大阪といった地方ローカルが再放送の頼みの綱である。
夏休みになると、朝の九時半から漫画をやったのである。今の子供なら、エスパー魔美やかぼちゃワインだろうか。私の時代は、断然トムとジェリー、はじめ人間ギャートルズ、ど根性ガエルであった。あさりちゃんはまだ本放送だったんじゃないか。パーマン、Q太郎、怪物くんも本放送であった。
この夏休みのトムとジェリーがなによりの楽しみだったのである。毎年夏にしか見ることが出来ないのだから、夏といえばトム&ジェリーだった。これがないと夏が来た気がしないのである。
再放送といえば、ルパン三世も忘れることが出来ないだろう。毎日曜の昼十二時から一時間やっていた。少し大人向けのこの番組を、私は三つ上の従姉のうちで知った。昼前に遊びに行けば、決まって一緒にこれを見ることになったのである。その後この枠はキャッツアイに変わりシティーハンターもやってただろうか(シティーハンターの本放送は中学のころ)。そのうち見なくなってしまって今どうなっているのかは分からないが、日曜にはルパン三世という人は多かったと思われる。
平日の夕方五時から漫画の再放送があって、この時間にミンキーモモだとかはいからさんが通るだとかパタリロだとか、ちょっとマニアックだけど今でもきっと人気の高いだろう漫画を見ていた。いや再放送だけでなく、魔神英雄伝ワタルや超音戦隊ボーグマンなんかの本放送もこの時間でやっていた。ボーグマンや、これの先祖に当たるのか赤い光弾ジリオンはかなりのお気に入りだった。特にジリオンは、その銃がセガからリリースされていた光線銃ということを知っていて、その光線銃のCMを見るかぎり面白くないだろうと独り合点して、本放送を見ていなかった。本当に惜しいことである。後々再放送を見て、ノーザ兵とその将軍バロン・リックスの末路に涙したり、アップルが可愛かったりともう一度見たいことほかの例ではない。ボーグマンも好きだった。友人に強固なアニス・ファームファンがいて、私がメモリー・ジーンを好きだったかは定かではない。
話を戻そう。再放送は四時半から、本放送が五時からだったのだろう。これは読売テレビの時間割である。この後関西テレビに移れば、ダーティペアなんかの再放送をやっていて、僕はこのダーティペアなんかも好きだった。ダーティペアとなればユリ派ケイ派どっちかみたいになるが、私は断然ユリ派である。
この黄金のパターンとも言えるアニメ時間割は、残念ながら『ざまあカンカン』なる山田雅人と森脇健児のふたりが送るお笑い(?)番組が始まって、崩れ去ってしまった。その頃は若手芸人を夕方の時間帯に投入するのが流行っていて、『ざまあカンカン』もそのひとつであった。この番組は読売テレビ午後五時からの一時間であったため、夕方のアニメ本放送は早朝時間帯という想像を絶する時間帯に追いやられた。関西は中途半端に都会であるため、独自番組がキー局発の番組を押しのけること頻繁で困るのである。
『ざまあカンカン』はお世辞にもよい番組ではなくって、よっちゃんネタという随分失礼なコーナーがあったりした。よっちゃんというのはたのきんトリオの野村義男である。田原俊彦、近藤真彦のふたりは生き残っているのによっちゃんはどこに消えたんだみたいなギャグを、視聴者からの端書も募って繰り広げていたが、野村義男はギタリストとしてちゃんと活躍している。そんなことより、山田森脇こそどこにいったのか。とこれだけを文句を言えるということは見ていたのである。憎みながらであったが見るには見ていた、暇だったからである。受験を控えた中学三年生は暇であったので、テレビを見るよりほかにすることがなかったのだ。
なお、この時期にスマップがデビュー。『ざまあカンカン』にてSMAPという名のスポーツ飲料が広告されていた。面白いメディアミックスであるが、憶えている人がこれまたいないのである。
マイルドなものからあげていきたい。
私が子どもの頃はアメリカから輸入してきたアニメが吹き替えで放送されていて、アニメに関しては日本が最先進国であるという構図はまだなかった。アメリカアニメといえばトランスフォーマーやミュータントタートルズを思い出す人もいるだろうが、そういうのではなくてスーパーマンやスパイダーマンである。
スーパーマンは、平日の朝八時半からやっていたのではないだろうか。朝八時からポンキッキを見てその後にスーパーマンやスパイダーマンが放送されていたのを、近所のひとつ上の兄貴分と一緒に見ていた。幼稚園児だったころである。きっちり最後まで見れば九時に近くなる。それから出発するから、幼稚園にはいつも遅れ気味だった。
昔はこういうアメリカのバタ臭いものが普通に見られたのだが、最近はあまり見ないように思う。前述のトム&ジェリーもそうだしディズニーもそうだろう。わざわざ輸入せずとも、国産で間に合うようになったからだろうか。
藤子不二雄ファンの私であるが、ジャングル黒べえにはあまり馴染みがないのである。私が物心ついたときには、もう放送終了していたのだろう。あまり再放送された記憶もないが、一度だけ夏休み朝の再放送時間に放送されたような記憶がある。
藤子不二雄作品らしい他愛もない番組である。ジャングルから来たのか、黒べえという居候が、ちょっと駄目な主人公を魔法で助けるのである。だが黒べえというのがまずくって、黒人差別的との理由で今はもう放送することも許されない。原作コミックスの出版もないのではないだろうか。
ジャングル黒べえに関しては、あまり思い入れがないのでこれで終わる。
ジャングル黒べえ同様、今はもう放送できないだろう漫画にまいっちんぐマチコ先生というのがあって、これは実に問題作である。悪ガキ三人組みが担任のマチコ先生にいたずらをするのであるが、それがスカートをあらゆる手段でめくってみたり胸を触ってみたりと、それはいたずらではなくて性的嫌がらせですというほかない番組だった。
なら、いい子で頑なだった私はそれを見なかったのかといえば、なぜかこれは見ているのである。再放送の度に見たのであり、始まりの歌も終わりの歌も、今でも覚えて歌えるくらいである。人間の基準はいかにもいいかげんという実例であるが、こういうものを許した当時の世間もある意味すごいのである。伸びやかにもほどがあるが、これくらいのものを泳がしておくくらいの度量が世間にあったとも言えるのである。しかも制作は学習研究社であった。だがいくら学習科学でおなじみの学研だからと言って、PTAに嫌われていたこと相当なものであった。
PTAに嫌われた漫画といえばキューティーハニーもそうらしいが、私はこれを一度も見たことがない。平成になってからリメイクされているがこれも見なかった。だから思い入れもなにもないが、こういった物議を醸す漫画は減ってしまった。漫画に限らずテレビは随分おとなしくなってしまって久しい。反面、裸は漫画いやアニメにはありふれてしまって、昔のような淫靡さはなくからっとしている。昔は隠すべきところは隠したが今はあっけらかんと見せてしまって、それが当たり前になった分、昔の勢いはすでにない。
世の中、タブーというのが減ってしまった。タブーへのカウンターとして現れる眉ひそめられるような番組が減るのも当たり前かも知れない。ひとえに私はそれが悲しいのである。
書きたかったが書く余地が無かった漫画を羅列する。
後はもう名前だけ。
他にもまだあるだろうが、記憶の向こうに定かではない…… 好きだった漫画はまだまだあるが思い出すには時間が足りず、はっきりと出るのはアニメばかりである。思い出というものは系統だっては出てこないのである。
それほどクイズ番組は見ていないのであるが、それでも心に残っている番組はある。クイズタイムショック、アップダウンクイズなど昔はいろいろな企画が盛りだくさんであり、タイトルは失念したが国盗りや世界一周をモチーフとしたものなど、多種多様であった。後者二つがクイズだったかどうかも今では定かではないが、リオデジャネイロやアジスアベバを覚えたのは、間違いなくその番組でであった。その頃のクイズで現存しているのはパネルクイズアタック25だけではないかと思う。連想ゲームも終わり、象印クイズヒントでピントもとうの昔に終わって久しい。
そういえば好きだったのはクイズダービーである。土曜の夜七時半からやっていて、まんが日本昔ばなしからこれを経由しドリフターズで終わるというのがパターンであった。大橋巨泉が司会をしていて、あれが競馬を下敷きにしているとはまったく知らず見ていた。三択の女王竹下景子、篠沢教授、そしてはらたいら。黒鉄ヒロシも出ていたが、当時の僕は彼らの漫画を見たことがなかった。
クイズダービーのシステムを、子供の頃はまったく理解していなかった。オッズがあって賭けているのだということを分からなかった。分かるようになったのは、小学生になって以後のことである。二三年、あるいはもっと後かも知れない。さらに後になってこの番組が出来レースでできているらしいという噂を聞くにおよび、しかしクイズに潔癖になっても仕方がない。この方面に関しては気にもしなかった。
大橋巨泉の名文句を覚えている方も多いだろう。一人を除いてみんなおんなじ答え。倍率ドン、さらに倍。こういう司会のパーソナリティでもっている番組は、司会の降板とその命運を同じくする。大橋巨泉の引退とともにクイズダービーも終わった。世界まるごとハウマッチもそうだっただろうか。今はあの当時の如き癖の強さを売りとする司会者も少なくなった。
個性派司会者といえば、愛川欽也のなるほど!ザ・ワールドも司会に個性があった。愛川欽也と楠田枝里子である。司会人気に加え世界のいろいろを映像で紹介する紀行の要素が加わったのが時代を掴んだ。高視聴率を勝ち取り十五年のロングランを記録すること他の追随を許さなかった。映像はすべて現地ロケである。テレビメディアの持つどこにも行かずして行った気にさせる力がものを言った。海外ロケを多用する番組が人気があることに関して今も変わりがない。
だが映像に頼るばかりではいずれ飽きられ十五年は到底もつまい。愛川欽也の名調子がともにあったのである。はい消えた。この台詞はちょっとした慣用表現として巷にまであふれた。番組名を読み上げる楠田枝里子の裏声がかった大げさな様子も耳について離れないこと、やはりテレビはパーソナリティの力、なかんずくパフォーマンスの妙に負うところ多いと知るのである。
文句だけが生き残っているのがある。NGという言葉が流行したときに作られたクイズ番組が番組中でNGワードという言葉が使った。私はこの軽薄な響きを嫌ったものだが、これが流行語となったのだからよほど当時がNGという業界用語に、詰まるところテレビ業界に憧れていたか分かる。テレビ業界は今も憧れだがかつての魔力はすでになく、今となってはNGワードどころかNGも過去のものとなった。ひらのあゆという漫画家の作品中には今なおもってNGワードという表現を見つけることができるが、これを見て当時を回顧するもの幾人いるであろうか。
番組は忘れられようとも、そこから生まれた言葉が残った例であった。
なるほど!ザ・ワールドはデパートに出張して、なるほど!ザ・ワールド展なる催しが開催されたこともあった。子供の頃の私は父に連れられてそれに出たことがある。わざわざ行ったということもないだろう、きっとチケットをもらったのだ。
この展示会以前になるほど!ザ・ワールドを見たことはほとんどなく、人気番組の展示というよりは、世界の面白いものの展示という観点で私は見ていた。だが展示会の最後に、なるほど!ザ・ワールドを観客参加でやってみるという企画があり、私はひょんなことからそれに出ることになってしまった。
テレビに映るようなものではなく、デパート内々のものである。司会はもとより愛川欽也であるはずがない。知らない男性ふたり組みだったが、映像を見せられ答えるのである。別に頑張ったわけではないのだが、ヒントが多く出されたおかげでめでたく優勝することができた。問題も覚えている。答えは葦であった。ヒントがパスカルの格言であったこともおぼえている。
優勝の景品は番組の出版した本であった。その本は今も家に置いてあり、このことが切っ掛けで私は毎週なるほど!ザ・ワールドを見るようになった。まったく縁も切っ掛けも異なものである。
どちらかといえばクイズはあまり好みでなかった私だが、贔屓のクイズ番組がひとつだけあった。NHKのやっていたクイズ面白ゼミナールである。鈴木健二が司会をしていて、氏のやにっこいしゃべり口も合わせて夢中だった。大学のゼミナール仕立てだったそうだが、なにぶん子供だったから大学のことなんか知らない。後に大学に行って大学院まで出たが、ああいう雰囲気のゼミナールは一度も経験したことがない。
私は根っからの教養主義なのである。面白くてためになるは学研のキャッチフレーズだったと記憶するが、私の座右の銘でもあったのである。知るは楽しみなり云々というフレーズは、面白ゼミナールの毎回始まりの口上であり、まさに私はこのフレーズが如く知るを楽しみとしてきたのである。
この番組を、先達てNHKのテレビ50年特番で久々に見ることができて感激だった。老いてなお鈴木アナは達者で、弁舌も当時のままであったのだった。あのクイズの売りは、ビデオを使わないことだったとも聞いた。歴史の再現はスタジオ内でコント仕立てで、科学のものもスタジオ内で実験をするのであった。いわば臨場感があった。その本物の手で触れるに近い実感をテレビは伝えてくれたのだろう。そしてそれが私を掴んでやまなかったのだろう。
実はこの番組の本が出ていて、私は二冊ほど持っている。だが残念なことに、本は番組とは随分趣を違えていた。ただのクイズ集になっていたためと私は思っていたが、先の特番で、臨場感の差であると思い至った。本当に目の前でなにごとかが起こっている感動があった。本にはそれがなかったのである。
さて、鈴木健二氏の口上は以下こう続く。
知るは楽しみなりと申しまして知識をたくさん持つことは人生を楽しくしてくれるものでございます。
この口上に従ったものか私は知識をたくさん持つことに一生懸命で、それがために人並みの人生を棒に振ってきた嫌いがある。楽しくないのかと問われれば、いや充分楽しんでいると応えるのだが、複雑な気分にとらわれることがあっていけない。知識だけではいけないとも思うのである。私とこの番組の違いは、知識に実践が伴ったかどうかの差なのである。
我々の世代でクイズ番組の名文句といえば「みんなニューヨークへ行きたいか」をおいて他にない。日本テレビ系列の年に一度の大番組アメリカ横断ウルトラクイズは、文字通り国を挙げての大騒ぎだった。
クイズで優勝した景品が海外旅行なら今でも当時でもなんら珍しくはないものだが、ウルトラクイズはつくづく豪気である。多数の一般参加者を引き連れ、アメリカの土地土地を点々移動しながら勝ち抜きするのが売りであった。第一会場は今は亡き後楽園球場であり丸バツを勝ち抜いてはじめて成田空港、じゃんけんで勝ち抜いてはじめて機上の人となれる。だが機内のペーパークイズで高得点をあげられないとハワイの地を踏むこともなく日本に強制送還されてしまい、厳しくもユーモラスなところが人気の理由であった。
当時子供だったもののなかには、いつか大人になったらこの番組に出たいものだと思うもの多数であった。私もその一人であり、勝ち抜いてしまったものだから帰るに帰れぬ参加者が呼びかける「係長、もう少し仕事休ませてください」や「首にしないでください」の類いに憧れたのも不謹慎である。当時は余裕があったのだろうか、今こんなものがあればその社員は間違いなく免職であろう。だがあの頃の参加者たちは長期欠勤ひいては解雇の危険を冒しニューヨークへと夢を賭し、社会もそれを大目に見ていたふしがある。馘首級の馬鹿騒ぎが許されるという点で、ウルトラクイズは間違いなく祭だったのである。
ウルトラクイズが定着させた言葉に敗者復活と罰ゲームがある。これらもウルトラクイズの醍醐味であった。
グアム辺り、回答者が絞られるまでは負けても強制送還程度の措置で済まされるが、グアムからの敗者は泥を浴びるに始まり、あらゆる趣向を凝らした制裁を受けるのである。いかだで川を下らされたり、ヒッチハイクさせたりみたいのが一般だったか。あるいは太陽の熱で自分の汗から蒸留水を作るなどというものもあったと記憶する。とにかくクイズ自体も過酷なら、脱落してからの制裁も過酷でそれがまた楽しいのであった。楽しいといえば語弊がある。これは決して嗜虐趣味で言っているのではないのである。あわよくば自分もあんな過酷な目をくぐり、罰ゲームの憂き目にあいたいと思わせたところにウルトラクイズのユーモアがあった。番組全体がユーモアの塊であったのである。
一世を風靡したウルトラクイズも、海外旅行が高嶺の花から一般庶民の手の届くものとなりつつあった時代に動きには勝てず、少しずつ低迷するようになっていった。決勝地をニューヨークからパリにしたことも一度あったが、やはりゴールはニューヨークでなくてはならず、看板司会者福留功男が降板したことも追い討ちをかけ、いつしか終わってしまった。晩年にはどこか無理が見え、やはり旬は最初の三四年であったと思しい。頂点を極めしもの後下り坂を辿るは世の理りと心得た。
ウルトラクイズの流れを汲む高校生クイズは今も長く続いているかわりに全盛時代を持たない。本家ウルトラクイズはといえば、残り火がまだくすぶるうちに終わることができて幸いであった。今また同じような番組を作ろうとしても無理であろう。国民総出でひとつの価値を追える時代は終わった。皆がそれぞれに余裕ができ、価値観は人それぞれとなって、それ以上にあのお祭り騒ぎを容認できる余裕などもはやどこにも残っていない。個人が精一杯だった時代にはかろうじて社会に余裕があり、それがウルトラクイズの時代であった。国民に余裕ができれば社会には余裕が失われ、そして今はどこにも余裕がないのである。昔を懐かしむのではない、ひとえに世のままならなさを思うだけである。
ウルトラクイズ優勝の景品が世間の話題になること、これも恒例であった。役に立たないものを必ずくれた。第何回だったかのログハウスセットは、建材のみが贈られ土地は優勝者持ち、組み立てもまた優勝者の仕事であった。こんなところにもユーモアがあるのである。金は掛かっているが、優勝者が得るのは名誉だけであった。副賞によって嫉妬を買うことなどまずなかったに違いない。
話は少し戻るが、面白ゼミナールの景品も役に立たなかった。四方どこから見てもクエスチョンマークに見えるトロフィーが景品である。前から見ればクエスチョンマークだが横から見ればQやAというのもあって、これらは実に役に立たない。これに限らず、クイズ日本人の質問のパズルなど、NHKはよくよく役に立たない景品が好きである。だが役立つ品を懸けてというのもどこかせち辛く、要は番組の企画が面白ければそれで充分なのである。だがよくもそんな景品を出すNHKを私が好んでいるこというまでもない。景品も含めて番組の中身なのである。
はじめに白状してしまうが、私は基本的にお笑いというジャンルを好まないのである。別に軽んじているわけでもなく、中学時代は図書館にあった落語全集をそれこそ没頭して読んでいたし、笑いが高度な文化的営為であることを認めるにやぶさかでない。喜劇コメディの類いももちろん見る、映画で言えばチャップリンなどかなりの数を見ているはずである。
そこまで弁解しながらもなぜ好きでないと言ってしまうのか。やはりどこか教養主義的な私であるため、お笑いは得るところ少なしと思っているのかも知れない。落語は好きで読むし見聞きもするが、技法としての笑いや語法言い回しを観察しているかも知れない。いわゆるバラエティ番組と呼ばれるジャンルに関しては、よほどのものでないかぎりテレビを消すかあるいはチャンネルを回してしまうのである。
要はお笑いと言われるもののなかに私にはちっとも笑えないものがあって、なのでもとより見ようとしなくなってしまったのである。面白いと思うタレントや漫才師はもちろんいるが、わざわざ自分からその番組を見ようとまではしない。こんな私であるが、それでもあえてお笑いというジャンルについて書こうというからには、思い出の番組があるのである。
クイズ番組はクイズダービーについて触れるなかで、ドリフターズを見ていたことはすでに述べた通りである。土曜日の夜八時からの一時間番組8時だよ!全員集合は、当時の子供を捉えて離さぬ魅力があった。ザ・ドリフターズが繰り広げる下品なコントが売りであったため、親からは蛇蝎のごとく嫌われこれを見ること許されなかった家庭もかなりあったと聞くに及んでいる。だが我が家は比較的番組選択の面では寛容な家風だったので、家族一同揃って8時だよを見ていたこと、まさに番組タイトルの如くであった。
私は昭和四十八年生まれである。物心ついたときにはすでに荒井注はドリフターズから脱退しており、志村けんが人気の中心となっていた。下ネタも多いドリフターズであるため分からないギャグもあったが、それでも子供たちは笑ってそのギャグを実践していた。志村がらみのギャグといえば志村後ろなどを思い出すが、それ以外は明瞭ではない。ヒゲダンスは志村と加藤の出し物で大人気であった。地味ではあったが私が好きだったのは中本工事のマット運動などで、比較的どぎつさえげつなさの少ないものを好む性質であったと言えばいい格好のしすぎだろうか。
私はちょうど大ヒットギャグが出た時期の合間に位置するのであろうか、ドリフターズのギャグはほとんど覚えていない。カトちゃんペはおそらくドリフ離れをしてからのギャグである。アイーンは明らかにそうであり、この時期の志村、ことバカ殿の志村は大嫌いである。加藤茶のちょっとだけよは私の見ていた時期より少し前になるだろう。印象的なギャグ、ギャグらしいギャグは知らないのである。
ドリフターズのコントで記憶しているのは、階段がすべり台になり登ろうとしていた面々すべてが滑り落ちるものや、落下するたらい、回り舞台、駄目だこりゃ、次行ってみよう。以上この程度である。だが私がドリフターズ好きだったのは間違いなく、この番組で一週間を終えるのが毎週の決まりの如きであった。
8時だよの構成は、まずコントがあり次いで歌があり、最後に短い見せ物、ショーをやってお仕舞だったと覚えている。子供には真ん中の歌がつまらなかった。ピンクレディーなど、当時のトップアイドルが出た場合は一緒に歌い踊るのであるが、どちらかといえば大人向けのゲストが歌うときなどは、中だるみをしてだれて仕方がなかった。
土曜の夜八時はこれと決まったようなものだったので、私はその裏番組を知らないのである。唯一知っているのがドリフターズの対抗馬として登場したオレたちひょうきん族で、なぜこれだけを覚えているかといえば、人気のとにかくやまなかった8時だよを当時日の出の勢いだったひょうきん族が追い上げ、ついには追い抜くまでになったからである。
保守的な私は世間ないし家族がひょうきん族を見よう皆が面白い言っていると説得するのを頑として聞かず一人8時だよに固執したのであるが、ついに折れてひょうきん族に移っていった経緯を持っている。我が家で起こったことはおそらく世間一般で起こった動きをそのままなぞるものと思って正しいだろう。ひょうきん族の付け目は件の歌の部であった。この間子供は退屈である、ちょっと8チャンネルにしてみようかという甘言にじゃあ歌の間だけならとチャンネルの変更を許すのである。ちょうどその時間にはひょうきん族の主力コーナータケちゃんマンをやっていて、見始めれば最後までみたいと思うものである。こうして少しずつ少しずつドリフターズ:ひょうきん族比はひょうきん族優位に傾いていき、私が始めから終わりまでひょうきん族を見ると納得したころにはすでに世の趨勢は決していたのである。
頑迷な私が最後まで見守ることをしなかった8時だよ!全員集合である。残念ながらその最後は知らない。あれだけの人気を誇った番組だったが挽回することなく消えていった。
その後、クイズはやくいってよという三十分番組に回答者としてドリフターズ諸氏が、毎週一人ずつ代わる代わるに出ていたのを私は見ていた。そこでは8時だよで見せた勢いはもうなく、後に志村一人がかつての隆盛を取り戻すが、その時にはもう私は志村を嫌いになってしまって、結局加藤茶と中本工事が好きであったということにしてしまうのである。
8時だよ!全員集合を追い落として土曜八時の王座に収まったオレたちひょうきん族は内容の俗悪さという点ではドリフターズにそう変わるものではなかった。ドリフターズの笑いが東京方であるのに対しひょうきん族は関西色が強く、番組の作りや構成は旧き8時だよとは一線を画す斬新なものであった。
思えばひょうきん族ほどテレビ局スタッフが表に出た番組もないのではないだろうか。芸人さながらの名前を付けて登場する彼らは、現在のテレビバラエティが持つ要素を当時すでに作り上げていた。素人芸が表に出始めるのである。だがそれでもひょうきん族でのそれは今ほど露骨ではなく、スタッフのお遊び程度であったのかもは知れぬ。ただ彼らは明らかに芸人ではない素人がタレントの替えとなりうることを証明してしまった。
ひょうきん族は笑いをそれまでの舞台という場からスタジオへ移してしまった。8時だよは市民ホールなどを使い公開のもとに収録されていた。あるいは生放送だったのだろうか、一度停電が起こり真っ暗な劇場が放送されるというアクシデントがあった。対してひょうきん族はスタジオでの収録である。舞台では無理な効果、構図が自由となり、悪乗りのギャグも編集の力でスマートなものにまとめあげられてしまった。加えて舞台と客席という区分が消滅したことも大きい。スタジオで行われていることは、テレビ画面を一枚隔てたすぐそこで行われているのに等しい。芸人達登場人物がずっと身近なものと感じられるようになり、テレビと観衆の関係は一変した。変化しつつあった状況をひょうきん族が捉えたのである。新しいテレビ的なるものに順応して登場したひょうきん族が、当時のヤングに支持されたのは当然だったのである。
ひょうきん族での人気コーナーはひょうきんベストテンとタケちゃんマンであった。これらはパロディであり、前者はザ・ベストテンを後者はスーパーマンを下敷きとしている。特にタケちゃんマンは人気があり、今のビートたけしと明石家さんまの位置はこの番組で築かれたと言ってよい。当時学校給食で米を牛乳で炊いたものを出していた地区があった。ミルクファイバーライスが正式名称であるが、なぜかタケちゃんマンライスという名前が付けられその名前のために人気メニューとなっていた。なぜタケちゃんマンライスか説明できる人間はただの一人も居るまい。私はこれを新聞で読んで、タケちゃんマンが子供たちに人気のあることを目の当たりにした。しかしテレビが教育の敵子供の敵と言ったのは他ならぬ学校ではなかったか。私はこういう迎合的な動きはもとより嫌いである。弱腰であり偽善である。いよいよ私の学校への疑惑を深めていくこともうとどめようもなかった。
世間でのタケちゃんマン人気が高まるに連れ私は自分が醒めていくことに自覚的であった。中学になった私はもうひょうきん族にそれほどの興味を持たず見ても惰性である。放送は平成元年で終わったということだが、晩年はほとんど記憶にない。覚えているのはホタテマンなどの全盛期のわずかだけか。それも小学生の時分で、いわば私にとってのひょうきん族は鹿の糞がブームになった時点で終わっていたのである。タケちゃんマンライスが給食に出た世代ではないのは幸いだった。ひょうきん族はライバル番組に蹴落とされた8時だよとは違い、自然に衰えていった。私は8時だよの末期は見なかったがひょうきん族の末期には立ちあったのである。勃興したものが衰退するのを見るは侘びしいものがある。むしろ痛々しいものさえあったと記憶するのである。
ひょうきん族では山田邦子の忘れえないギャグがひとつある。ひょうきんマナー講座とでも言ったろうか、山田邦子が正しい鼻のかみ方を鼻かみ道お家元として講習するという他愛もないものであったが、私はこの一回の持つおかしみをいまだに忘れていない。後はサラリーマンライダーが気に入っていた。どちらも世間受けしていないこと、私の生まれついてのマイナー嗜好がよく表れている。
私はどうしようもない怖がりで怖い番組を見れば必ずそれが尾を引く。だが怖いもの見たさという言葉もある通り怖い番組は見たいのである。指の間から覗くようにして見ていた。
小学校に入ったくらいの頃、毎夏にテレビで怪談映画をやっていた。怪談の映画があるというのも時代を感じさせないだろうか。今恐ろしい映画といえばホラー映画となるのだろうが、昔にはばけ猫や四谷怪談、牡丹灯籠が映画として作られ、テレビで放送されては人気だった。結末の物悲しさから牡丹灯籠などを私は好むものだが、今回の昔語りはばけ猫である。
ばけ猫というからには行灯の油などを舐めたと思しいが、実を言うと筋はまったく覚えていない。古くさい映像と記憶しているが、それも定かではない。覚えているのは特に印象深かったある一シーンである。
私はテレビに向かって身を乗り出すようにして見ていた。怪談なので適度に間を空けては人を脅かさなければならない。ばけ猫のでないシーンがしばらく続いていた。私は正座をしてその時を今か今かと待ち受けていた。正座だったのは礼儀作法に厳しい家に育ったからではなく、緊張のあまり心身強張っているためであった。だがわずかに油断があったのだろう。ばけ猫が突然逆さ釣りの状態で画面いっぱいに現れたのに驚き、文字通り私は飛び上がったのである。
一メートルも飛び上がったように思ったが、なにぶん子供の記憶である。実際にはそんなはずありえないこと明らかである。まわりで一緒に見ていた家族は、ばけ猫にではなくむしろ私の驚く様に驚いていた。大げさな驚きようにこのことはしばらくの語り草となっていた。
こんな私である。恐怖云々の番組は基本的に見ない。だがやっていれば見るのはすでに語った如くである。見てしまう番組の筆頭は夏休みの昼に日本テレビで放送されていた『あなたの知らない世界』であった。
他愛もない番組だったのかも知れないが、子供の私には充分恐ろしかった。視聴者の恐怖体験を募って映像化するという触れ込みで、この番組を私に吹き込んだのは、これまでもたびたび出てきている近所のひとつ上の兄貴分であった。夏日中表で遊んでいたら家に帰ってテレビを見ようということになって、それが『あなたの知らない世界』であった。怖い番組だと私の小心を知る彼は少し意地悪そうに言うのだったが、その時私は本を読んでしまっていたのでちっとも怖がらなかった。怖くなったのは読んでいた本を取り上げられてからである。確かにその番組は怖く、私は震え上がった。そして毎年夏になればこれを見ずにはいられなくなったところが私の私らしいところだろう。結局は恐怖オカルトの類いが好きなのである。
『あなたの知らない世界』は今もやっているはずである。午後は○○おもいっきりテレビになってからは一度だけ見たことがある。だが司会のみのもんたがあまりにもよくしゃべるものだからちっとも怖くならず、翌年からこの特番時期になるとみのは夏休みを取るようになった。それが番組のためにも氏のためにもよかったと私は思っている。
オカルト恐怖番組の類いは山とあるが、それらとは一線を画し一色違ったのがワイドユーの一コーナー「心霊写真の謎を暴く」であった。タイトルがすべてを語っている。視聴者から送られてきた心霊写真をカメラマンが再現するのが趣旨で、手や脚の消えた写真やあるはずのないものが写っている写真などが次々再現され霊の障りなどではないことが明らかとなる。どう考えても普通のものとは思えない写真が、ただの偶然もののはずみで出来上がったものと証明するフィルムが実に説得力豊かで鮮烈だったため、この番組に限り私は恐れ抜きで見ることができたのである。
後には矢追純一のUFO番組にも怖れた。嘘だ嘘だと馬鹿にされ歌にもなった川口浩探検隊にもはらはらしたのである。にもかかわらず映画リングはまったく怖くなく、開いた口がふさがらないほどだった。ともあれ恐怖が先に立つ私には、針小棒大に物事を怖く怖く誇張するものよりも、逆に未知を理性的に克服するものが好ましかったのである。それが「心霊写真の謎を暴く」であり、今この番組の後継代わりはないのである。
私はドラマを見ないことにおいては筋金入りであったが、それはドラマが面白くないと思っているからではなくたまたま見ない人間に生まれついたためであろう以外に言い様がない。そんな私であるが、記憶に残るドラマがないわけではない。だがそれもごくわずか、誰もが見たようなのもあれば、いやむしろその手のものは少なかろうと思う。
有名なところから語っていこう。NHKの大河ドラマは毎年話題になること慣例行事の如くであり、そんな所為もあって私も一応見はするが、見るのは決まって最初だけで途中から興味を失ってしまうことまた相変わらずであるから、私がドラマを見ないことやはり生まれついた星が悪かったのである。
ともあれそんな私が熱狂的情熱を傾けてみた大河ドラマがひとつある。それは豊臣秀吉の生涯を描いたものである。『おんな太閤記』、西田敏行主演。この脚本が橋田壽賀子というのは最近知った。私にとって重要だったのは主演の西田敏行である。彼の名が私の名と同じなのである。
実につまらない理由であるが、子供というものは所詮そんな程度で好き嫌いを決めてしまうのである。1981年当時私は八歳であった。この同じ理由で西田敏行の歌った『もしもピアノが弾けたなら』も私の好むところであったが、この曲を主題歌としたドラマがなんであるかは今も昔も知らない。ただこの歌のために、私は西田敏行を長く歌手と勘違いしていた。
私は幼時郷ひろみが好きであった。理由は西田敏行の場合と同じく簡単である。以前にも出た、三つ年上の従姉の名前が同じだったからというだけの理由である。持ち歩く人形(それは随分簡素なもので手も脚もなく刺繍であった)に郷ひろみと名前を付けた。これが私のライナスの毛布であり、くんちゃんであった。今も残っているが、もう私はこれを郷ひろみとは呼ばない。
民放系のドラマはほとんど見ておらず、とりわけトレンディドラマの時代私は見るものを持たず不遇であったが、それ以前には見ているドラマがわずかにあった。それは田原俊彦の主演である『教師びんびん物語』である。1988年放送らしいので、私は十五歳くらいだろうか。もっと幼かったと思っていたのだが、つまりこれを私のドラマ最古の思い出とするあたりに、いかに子供時分私がドラマを見なかったのかが伺えるのである。
タイトルから明らかだろう。小学校を舞台とするどたばたコメディものであり、主人公徳川龍之介に田原俊彦、後輩榎本役に野村宏伸、私はヒロインの紺野美沙子をとりわけ好きだった。あのいかにも山の手出身といった気位高いお嬢さんの風貌が、そして劇中の恋に不器用で龍之介を気にしながら素直になれない様子がよかったのである。
このドラマは『ラジオびんびん物語』の後進であり、人気が非常にあったため続編も作られた。続編と言っても世界観を引き継ぐのではなく、同名の役柄人間関係だけが引き継がれ、内容は刷新される。あばれはっちゃくやケーキ屋ケンちゃんと同様のシステムといえば分かりが早いだろう。私は毎年新番組として登場するこれらを見ては、去年の方が良かったと歎くのである。
野村宏伸や萩原流行を知ったのは教師びんびんであり、彼らのキャラクターは長くこのドラマの第一作のイメージで固定された。特に回を重ねようと毎回気弱な役で登場する野村にとって、こういう記憶のされ方は不本意であろう。後にファイト一発のリポビタンのCMに出ていたと知り、あまりのイメージの違いに仰天した。その野村がNHKの連続テレビ小説に出ていて、それがあまりに力の抜けたものであり、私はそれを愛した。戦中を扱っているものでありながら肩の力が抜けた展開が面白く、だが後半に一気に深刻さを増すところがショックであった。これとほぼ同キャストの時代劇がやはりNHKで放送されていると知人から聞き遅ればせながら見始めたのだが、これはほんの数回しか見られなかった。テレビ小説とともに中途半端な見方しかできておらず心残りが募る。機会があれば見てみたいと思っているのである。
教師びんびんについて話すなかで例として出した『あばれはっちゃく』と『ケンちゃんチャコちゃん』のシリーズ。これらドラマは当時の子供たちのお気に入りであり、毎年刷新される設定に賛否両論激論を戦わしともに昨年を懐かしむのが年度初めの恒例であった。子供の気持ちは移ろいやすいもの、次第に新たな長太郎に馴染んでは過去を忘れるのも例年のことであった。
あばれはっちゃくは父親東野英心の決まり台詞がふるっている。お前の馬鹿さ加減には父ちゃん情けなくて涙出てくらあと父は息子を庭へけり出すのである。毎回のクライマックスにこのシーンが出てくる。この時代は腕白坊主も怖い頑固親父もあったのである。父とはまさに偉大なる機会仕掛けの神であった。この軌道修正により、物語は大団円へ向かうのである。
父の決まり文句が涙出てくらあなら、長太郎のそれははっちゃけはっちゃけはっちゃけたである。父に叱られた長太郎は現状打開のアイディアをひねり出すため、やおら逆立ちを決めはっちゃけはっちゃけと考えはじめるのである。この活用例を見ればはっちゃくとは動詞のようであるが、一体全体本当にある言葉なのだろうか。どちらにせよ、当時の子供の思考する際のスタイルははっちゃけと一休さんのぽくぽくに二分されたのである。
後年はっちゃけはっちゃけは逆立ちでなくブリッジに変更された。これは逆立ちは危険だからというクレームいや親心がどこかから寄せられたためと思われる。同じようなことはサザエさんの次回予告にも見られる。いつの間にかじゃんけんに変更させられていた次回予告、逆立ちからブリッジへの移行を見れば、世の中から腕白小僧の芽は摘み取られ、今世間に満ちているのは頑固親父の愛あるゲンコツではなく事なかれ主義ばかりなのである。
昔は子供に人気の子供向けドラマというものが民放にもあったことをお話した。今ではNHKにかろうじて残るばかりである(『六番目の小夜子』は傑作である)。今子供は少なくなったと言われるが、決していなくなったわけでない。だがこの不自然な子供向けドラマの消滅とはなんであろうか。
ドラマを見なかった私であるが、子供向けの連続ドラマのシリーズは心待ちに見ていた。水曜日の七時半からやっていたように思うので、Dr. スランプの続き、フジテレビ系だったのではないかと思う。「飛ぶんだ跳ねるんだボールになってさ」という歌詞とメロディが残っているばかりで、題名すら出てこない。調べてみれば『ハウスこども傑作劇場』という名前で、テレビ朝日系、火曜日の七時半からであった。となれば怪物くんの続きで見たのだろう。好きな番組であった。『ずっこけ三人組』や『チョコレート戦争』もドラマ化されたと記憶にはあり、これらを好きだった私は狂喜乱舞したはずであり、あるいは原作とドラマの差異に落胆したであろうか。
これら子供に向けられたドラマはどこか地味であったが、こういうものこそよかったと思う私はやはりどこか古いのであろう。古くさい私に今のテレビはやはり淋しいのである。
見ないといえばニュースこそ見ない番組の筆頭だった。子供にとってニュースに上る世間世相の色々は決して面白いものではなく、それよりも漫画だなんだと面白おかしいものを見たがるのが子供である。ニュースが面白いと言われるようになったのは、それこそニュースステーションが現れてからではないだろうか。それ以前のニュースは面白さなどよりも報道でございと真面目くさった顔ばかりが目に付いた。だが頑なな子供であった私にはニュースといえばしかつめらしい真面目一辺倒のほうが好ましかったのである。
私が幼稚園のころには国鉄の運賃値上げが問題となっており、ニュースは連日これを報道していたと見える。と言うのは、私はこれで失敗しているからである。
幼稚園の、遠足なのかなんなのか、とにかく交通費が問題となったことがあったのだろう。園児がひとまとめにされて説明を受けているその時に、ちょうど国鉄だかなんだかの話が出たと思われる。よせばいいのに、そこが子供の浅知恵である。知ったかぶりをしたい年頃でもあったのだろうが、それを私は大きな声で運賃と言い換えてしまったのだった。大人の言葉を使いたいだけだったに違いない。しかし残念ながらまわりの子供たちは国鉄運賃になぞ興味はなく、私は汚いといって謂れのないそしりを受けるはめになった。
その後長くニュースに関する記憶は途絶える。ドラえもんがニュースの時間変更が原因で六時五十分からという半端な時間になったりと、あまりよい記憶がないのがニュースというものであった。
ニュースステーションに私は乗り遅れた口である。ニュースステーションは当時中学生にも分かるニュースを標榜して人気を集めていた。中学校なんかでは教師がニュースステーションを見ろと生徒に言ったという。だが私はこの番組に乗り遅れ、初期ニュースステーションの売りであった金曜チェックをそれこそわずか一二度しか見ることがなかった。ニュースステーションを見なかったのは単純に十時には寝ていたからである。昔の子供は夜が早かった。九時十時に就寝などは普通であった。中学生になってようやく十一時くらいまで起きることが許される。その様な時代があったのである。いや、今でも多くの家はそうだろうと思うが。
ニュースステーションを見始めてからは、ニュースといえばこれになった。他の時間にニュースは見ずとも、ニュースステーションだけで足りるというような雰囲気があった。だが後に筑紫哲也のニュース23が始まり、ニュースといえば筑紫哲也のものというように変わっていって、結局今私は決定版といえるニュースを持たない。NHKの報道を見れば足りると思っているふしがあるので、NHKが決定版といえるだろうか。民放の多くは脚色演出めいたものが鼻について好まないのである。
私のお気に入りニュースはNHKの週刊こどもニュースである。ニュースステーションが中学生に分かるニュースを目指したとすれば、これは小学生に分かるニュースである。あれだけ簡単に時事をかみ砕くのはよっぽどの苦労であろう。簡単だが端折ったりおざなりにすましている訳ではなく、丁寧にきっちりと説明すればこうなるという手本のような番組である。分かっていたつもりで生分かりという私には本当に助けである。
余談であるが、高校の頃なにげなくNHKを見ていたたば眼鏡をかけた女性アナウンサーがニュースを読んでいることがあった。当時は今のように眼鏡が流行っていなかったこともあり、またテレビに映る女性で眼鏡をかけているなど皆無であったから、本当に驚いたことを覚えている。眼鏡の男性アナウンサーは珍しくないのである。目の悪いのは男ばかりということもなかろう。あれだけ女性アナウンサーがいれば視力の悪いものも少なくないはずである。女性ばかりが眼鏡をかけないという光景が不自然であると気付いた。
その眼鏡女性アナウンサーはその後も何度か目にする機会があり、中川緑アナウンサーであると知った。女性のかけない眼鏡をあえてかけていると見て、アナウンサー界における性差を打ち破らんとする光明をこの女性に見たのである。その後中川緑は眼鏡をかけなくなって私はひとしきり落胆したが、彼女は今でも私のお気に入りのアナウンサーである。と言うべきか、私は他にアナウンサーを多く知らないのである。
学校嫌いだった私は、月に一二度熱を出して学校を休むようにしていた。熱を出してと言えどもとより大したことのない自主休暇のようなものであるから私は元気である。朝数時間は形だけでも寝込んでみるが、直きに起きだしてはテレビを見ていた。見ていたのはNHK教育で放送されている教育番組であった。
好きだった番組はいくつかあるが最も好きだったものはいちにのさんすうだった。宇宙人なのかなんなのかタップという白い人形が可愛くて、よしさん(こちらは人間)と一緒にさんすうにまつわるエピソードを十五分間繰り広げる。好きこそものの上手なれという。この番組のおかげで私は今も一桁の加算減算には困らない。
後にタップのガールフレンドなのかピンク色のキャラクターが加わったが、この頃には教育番組に対する熱が少し冷めていたこともあり、また昔のいちにのさんすうをこそ愛する頑なさがあるため、新参者をあまり嬉しく思わなかった。
はたらくおじさんという番組も好きだった。ウーマンリブの勃興により後にはたらくひとびとと改題されたらしいが、私にとってはあくまではたらくおじさんである。さまざまな仕事場を訪れては仕事の様子を紹介するという、とりわけ男子に好まれた番組だったのではないだろうか。
実は私の父がはたらくおじさんに出ていたのである。ほんのワンカットだけだが、父の若かりし日の姿をそこに見出すことができる。もちろんビデオなど家になかった時代の放送である。今それを見ることは簡単ではないが、実は宝塚ファミリーランドに行けば見られたのである。ところが悪いことに宝塚ファミリーランドは閉園してしまう。時代は過ぎ去りすべては移ろいゆく。これから私はどこで昔の父と会えばいいのだろうか。
他の番組はことごとく記憶の彼方に断片として残るのみである。たんけんぼくのまちも見ていた。正体不明のちょうさんを私は好きだった。水森亜土が硝子に絵を描いたのはなんの番組だったろうか。いってみようやってみようの第一回放送私は視聴者として立ちあっていた。できるかなを好きなことその当時の子供のことごとくに同じであった。ふえはうたうは番組内の小コンサートを楽しみにしていた。オーケストラの番組もあったはずである。だが多くは思い出せない。
これら子供向けのものを見終え最後に中学生向けの理科実験番組までを見て、午後は再び眠るのが私の病欠であった。
子供時分は放送されるままに見ていた教育番組であったが、ある程度大きくなり知恵もつくと、少しくマニアックな見方もするようになるのであった。その当時は声優ブームである。ふえはうたうに出ているのが声優としても活動している関俊彦と知ったのは高校の時友人からだったろうか。大学になってからは皆口裕子ファンの強い要望によりさんすうすいすいを見ていた。ヒロインのかけざん姫を皆口裕子演ずるためであり、池澤春菜という人も出ていたらしいが私はこの人がどんな人か知らない。池澤春菜の役はひきざん姫と思っていたがバリアー星人だったらしい。最近の記憶に関わらずいいかげんなところに如何に義理でこの番組を見ていたかが分かろうというものである。
人のせいにしてばかりもいられない。この時分に私が好きだったのはたのしいさんすうだった。アリスとテレスというふたりのアニメキャラクターがさんすうで悪者に立ち向かうのである。たわいのないストーリーだが、なに筋なんてものはどうだってよいのである。これをたまたま放送していたパイロット版で知って私はこれだと思った。思っただけでなく全話をビデオにとってまで見た。当時の私の流行りは全話ビデオ録画であった。そんなわけで今もたのしいさんすうは視聴可能である。あまりに何度も見たものだから、その後私は一桁の乗算には困らない。
高校時分の私は大学受験を控えて暇だったこともあり、夕方の四時頃から七時まで教育テレビを見ていたのである。ひとりでできるもんや母と子のテレビ絵本、おかあさんといっしょ、英語であそぼなどを見、最後六時半からのフルハウスなど海外ドラマを楽しみにしていた。この時間この時代の教育テレビではハッチポッチステーションと天才てれびくんが好きであった。天才てれびくんは最初期のダチョウ倶楽部が司会をしていたころのが最も面白く、ダチョウ倶楽部降板後は見ていない。天才てれびくん内では短いアニメをやっており、最初の数年はこれのどこが子供向けかと思うくらいにハードなSFで、むしろ大人に人気のあったようである。
天才てれびくんとハッチポッチステーションの共通点は、どちらも子供向けという体をとりながらどこか大人を主眼に入れたところを持つところである。天才てれびくんは先に言ったとおり番組内アニメの内容がそうであったが、それだけではない子供向けの実写パートにも大人にも通用するようなシュールなギャグが見られた。ただこれはその初期だけである、後期は普通の子供向け番組になってしまったため私はもう見ていない。
対してハッチポッチステーションは主役のグッチ祐三が気張っている。替え歌などは懐かしのGSや洋楽が中心であり、子供はこれらを知らんだろうと思うのだがきっとそれでも関係なく面白い。グッチ祐三の芸達者たる所以であろう。大人も子供もそろって楽しめるという点でこの番組は希有である。子供には子供の大人には大人の楽しみがあるのである。気張っているのはグッチだけでなく、ジャーニー、ダイヤさん、トランクといった人形たちも一癖二癖あって面白い。造形もセンスがよい、どこか子供番組の枠に収まらない大きさがあって、そこを私は好んでいる。今でもたまに見てしまうのである。
最後におかあさんといっしょに言及しておこう。私がこれを子供時代に見た時はまだにこにこぷんの時代ではなくブーフーウーをやっていた。当時子供番組は多くポンキッキ、ロンパールーム、おかあさんといっしょが三巨頭であった。とはいっているがもちろん記憶に定かではない。後から得た知識であり、私にとってはガチャピンムックとブーフーウーという着ぐるみパーソナリティーこそが重要であった。子供のころ私の使っていたご飯茶碗はブーフーウーだったこと、家に今もポンキッキのレコードが二枚残るところを見れば、私がいかにこれらを好きだったと分かるだろう。
おかあさんのいっしょをもう一度見るようになった高校の頃。着ぐるみはにこにこぷんのじゃじゃ丸、ピッコロ、ポロリであった。おにいさんは坂田おさむ、おねえさんは神崎ゆうこさんだった。昔北海道北部を旅したとき、早朝の帯広で見たテレビ番組の主題歌が神崎ゆうこさんの歌うもので驚きつつも喜んだことがあった。なぜ神崎さんの歌とわかったのか。それは私が神崎さんのCDを持っているからである。神崎ゆうこおねえさんに私は執心だったのである。何故と問われると返事に窮する。こういうことに大して理由はないのである。
かくの如くにテレビをともに育ってきたかのような私であるが、この頃は毎週必ずをこれ見たいと思う番組がないのである。人が見ているついでで見るということはあるが、なら自分一人の時にあえてその時刻そのチャンネルに合わせるかといわれれば、きっとそうではないと分かっている。なにかの弾みでやっていることを知れば見ることもあるという程度にとどまるものばかりである。暇つぶしならテレビである必要もないのであるから、テレビが消えている時間はなおも増えつつある。
まったく冷えきったテレビと私の関係であるが、唯一ビデオに録ってまで見ている番組がある。それはNHKの語学番組のシリーズであり、私は月曜日のイタリア語から日曜日のドイツ語まで、週に七カ国語の番組を視聴している。
記録を見ると、私が語学番組を見始めたのは1999年からである。その年に私は学校を卒業し、定まらない進路に迷っていた。もしさらに進学するを希望するなら今以上の語学力が必要である。この時、NHKの語学番組で勉強すればよいのではないかと忠告する知人があった。ラジオ及びテレビで基礎を忘れない程度に勉強すればよい、より以上を望むなら学校にでもなんでも通えばよいと、年度変わり目のあわただしい時期に、駆け込むようにして語学番組を見始めることになった。
最初はフランス語だけの予定だったのである。だが同じやるなら、以前に学習したことのある語学すべてをやっておこうと思った。ラジオもやるとなれば骨だが、テレビだけならなんとかこなせるだろう。フランス語に加え、イタリア語、ドイツ語、中国語を見始めることになった。イタリア語は最後の再放送にぎりぎりで間に合うタイミングで、もしこれに間に合わなければフランス語以外は翌年以降に持ち越されたことだろう。そして英語を、最も基礎的なものとビジネス英語を除いて学習しておくことに決めた。
英語は義務教育でいやいや学習したにすぎない私である、苦手であった。大学ではフランス語を第一外国語として学習し、イタリア語を第二外国語に、そしてドイツ語を追加で履修していた。独語は必要に迫られてのところが大きいが、決して嫌いだったわけではなく、むしろ楽しんで学習していた。中国語は地元の公民館活動で、論文から逃避しようとしたわけでもあるまいが、追い込みの時期に勉強し始めていた。以上が私の語学の履歴である。
始めは四カ国語からはじめたNHK語学であるが、一年半後にロシア語を開始することに決めた。仕事でロシアアルファヴィートが持ち込まれることがあり、ロシア語が読める必要を感じたためである。その半年後にはハングルも始めた。韓国からの留学生が例年増えつつあるからである。そして最後にスペイン語を見始めた。これだけ毎日語学番組を見ていると、週に一度見ないより毎日見たほうが効率が良かったのである。だが英語はやめてしまった。きちんと学習するには限界を感じ、ただ見るばかりになり始めていたからである。
スペイン語は、私にNHK語学を勧めた知人が学習していた言語である。スペイン語が最後となったのは、いわば彼に遠慮したためであった。今その知人とは交流が絶えて久しいが、スペイン語会話を見ていて彼を思いだすことがある。きっと元気にしているだろう。
今私は特に語学に力を注いでいるわけではないが、それでも語学番組は見続けるだろうとおぼろげながら考えている。言葉の学習にとどまらず、他国他文化をうかがう窓、情報を得るきっかけとなってくれるところが私には嬉しいのである。ロシア語はいまだに読めないが、ロシアという地域への興味は番組視聴開始後確かに増している。これは南北朝鮮に対しても同じである。あくまでもフランスを軸としながらも多文化的思考を持ちたいと考える私に、この番組はうってつけで最も手軽な手段であった。後は学習の結果がついてくれば言うことがないのであるが、残念ながら多くは期待できない有様である。人生のうち使える時間はあまりに少なすぎるのが悪いと責任逃れするのである。
本当は前回で終わるつもりだったのだが最後にどうしても書いておきたいことができた。申し訳ないが、後一回だけ益体もない昔語りにおつきあいいただくようお願いしたい。
最後に話しておきたかったこととは、題して私の愛したテレビスターである。
のび太が私のヒーローであったことはすでに述べた通りであるが私も人の子である。アニメの人物と現実の人の区別があいまいな幼時ならいざ知らず、現実と虚構の区別が判然とすれば自然生身の人間に憧れるようになったのであった。身近なところではピアノの先生だったり小学一年の時のクラス担任であったりしたが、やはりテレビに出ている人たちには憧れたのである。ともすれば普通の子がテレビアイドルやタレントとなれる今とは違い、テレビに出ているだけでスターだったような時代である。その憧れたるや強烈なものがあった。
幼稚園の頃、私のアイドルはジュリーであった。ジュリーとはいうまでもないことだが沢田研二である。近所で私は、どこに行ってもマジンガーZとジュリーの片手にピストルを歌う子供として有名であった。大人が歌わしていたわけではなく、自ら進んで歌っていたと聞いている。あまりのジュリー好きが高じて、親戚のおじさんを勝手にジュリーに仕立て上げ崇拝していた。似ていたわけでもないのに、子供というのは時として理不尽である。
当時のアイドルを語るうえでピンクレディーを外すことはできないだろう。姉や従姉たちの影響下に育った私は、もちろんピンクレディーファンである。私ピンクのサウスポーは振りつきで歌い、間奏のストロボモーションもかくかくと動きを止めながら真似していたのを覚えている。UFOなどは今でも歌えるし、思えば刺激的な衣装歌詞にどきどきすることもなく無邪気に好いていたのである。だがあの時代にピンクレディーを嫌った子供などいたのだろうか。ピンクレディーに関しては私も他の子供たちと同じであった。
幼時自分の人形にまで名前を付けていた郷ひろみであるが、その頃の郷ひろみは意外と記憶に残っていないのである。私の記憶に鮮やかなひろみは2億4千万の瞳――エキゾチック・ジャパンを歌うひろみである。私はこの歌を好きで歌詞もおぼろげによく口ずさんでいた。小学生の頃である。小学生の私はひろみはひろみでも岩崎宏美を愛していた。聖母たちのララバイが好きであり、ドラマチックな盛り上がりを持つ彼女の歌はことごとく愛していた。サスペンス劇場のテーマ曲として歌われていた。ドラマ自体は興味の範疇外であるが、歌だけのために最後を見たがった私である。
だが今回思い出のテレビスターについて書こうと思ったのは彼らのためにではないのである。今まで名前の出た人たちは、私があえて言わなくとも誰もが記憶の片隅に留めている名前である。だから私は記憶に残らなかった、しかし子供時分の私がほぼ唯一固執した女性タレントについて書いておきたかったのである。
その人は歌手ではなかったしコメディアンでもなかったし役者でもなかったと思う。テレビといえば美男美女の時代に、むしろかわいらしい感じのファニーフェイスであったと記憶している。若作りというかむしろ子供っぽさを強調し、あかぬけなさが売りのような女性であった。私がなぜ彼女に固執したかについては理由があり、なに単純な理由である。彼女は眼鏡をかけていたのである。
今ほどテレビタレントという職業が確立していた時代ではなかったが、彼女の位置付けはまさに今で言うタレントであった。クイズ番組やバラエティーショーみたいなものでよく見ることができたと思う。今から考えると結構人気があったのかも知れないというのは、いろいろな番組でちょくちょく見かけたからである。彼女を見れば私は上機嫌で子供心に非常に嬉しく思ったものだから、本当に彼女のことを好きだったのだろう。だが悔しいことに、浅はかな私は彼女の名前を忘れてしまって久しいのである。
確か姓は斉藤とかいったのではなかっただろうか。だがそれも定かではなく、薄れる記憶のなかで確かと思えるのは、晩年の彼女が出ていたCMについてである。確かポークビッツのCMに出ていた。少なくともハムソーセージの類いのCMにでていたはずなのである。晩年の彼女は少々丸くなってしまっていて、子供の私はそれが少し悲しかった。私の記憶に残る彼女の姿はその晩年だけであり、だから私は彼女のことを思い出すたび少々切なさが込み上げるのである。