クリスマス特別企画と銘打たれた香港ツアー。普段は、クリスマスにせよなんにせよ、イベント、恒例行事の類いにはそっぽを向いている僕なのですが、この企画には一も二もなくほいほいと参加を決めてしまった。なぜか? それはやはり、十月のイタリア紀行があまりに印象深く、いわば旅に見せられてしまったから――でしょう。
香港には、関空八時発の便で向かいます。八時ゆうても、夜ちゃいますよ。朝です、朝。さらに輪をかけて、ツアーの集合時刻は午前六時半。そんなん、京都からやったら、始発に乗っても間に合うわけがありません。なので、前日夜十時に泉大津入り。泉大津ゆうたら、日本ですよ日本。大阪です。
なぜそんなに朝早いのかといえば、それは臨時便だからです。でも、この早朝便のおかげで香港入りは午前十一時。非常に余裕のある行程が現実のものとなります。しかし、ひとつ大きな誤算があったのでした……
香港前日は、大阪梅田で食事。泉大津は寝るだけです。出発の日の朝は、さっさと関空にいって、そこで適当に済ませる算段でした。まあ、空港ビルといったら土産物から飲食店まで沢山たくさんあるもんじゃありませんか。うどんでも軽く食うたろ。と、そんな気でいた僕なのでした。
小雨降る朝まだき、一路関空へと出発。前夜はあまり寝られなかったので、タクシーでも電車でも、ぐーぐー寝る。なんぼでも寝られると思ったころに目的地に着くというんは、なんか意地悪やわあ。寝足りひんのに、無理矢理起きたらなあきません。
寝ぼけまなこをこすりながら、集合場所に顔出し。手続きさえ済ましたら、後は出発まで自由。さあ、飯や飯やと思ったら、店が開いてへんってどういうこっちゃ! どこもかしこも準備中。朝早いと、空港ビルも営業しいひんのかあ(注:空港ビルは営業してますよ)。とほほやわぁ……
しゃあないから、もう出国してしまう。ウィングシャトル(モノレールや)に乗って、旅客ターミナルへ。出発は八時なので、搭乗までにはどこかしら開くだろうと思ったが、甘かった。やっぱり、どこも開いてへん。開いていたのは、限りなくコンビにじみた、免税お土産やさんだけでした。
あきらめの悪い僕は、ターミナルビルを何往復もして、体力をそれこそ使い果たしてしまうのです。でも開いてないものは開いてない、でも食べたいものは食べたい。仕方がないので、件の免税店で、明らかにお土産丸出しの饅頭やスポンジケーキを買うんもなんだから、グリコの「素直」という、ビスコみたいなお菓子を購入。侘びしい朝食を済ませたのでありました。
関西国際空港のサービス施設は、だいたい八時ごろに開くみたいですね。なので、関空から早朝便を利用される方は、朝食を持参されたほうがいいですよ。いや、ほんとに。
午前八時、飛行機が離陸しました。いよいよ、香港へ向かっての旅立ちです。いやがうえにも高まる期待! といいたいところですが、当面は今乗っている飛行機のほうが重要。というのも、まさかのビジネスクラスだったのですから。
基本的に貧乏人の僕ですから、ビジネスクラスなんて一生縁がないものと思っていました。ところが、思わぬ香港ゆきでビジネスクラスを体験することができて、これだけでもうもとを取った気分。いや、それはちょっと言い過ぎです。
ビジネスクラスとエコノミーの違い、それはまず座席が違う。ビジネスクラスは広々ゆったりとしています。機内食も違います。食器が使い捨てじゃないんです、もちろん中身も違いますよ。加えて、チョコレートやワインの質も高い。というわけで、白ワインなんぞを頼んで、いやあ飲みましたね、飲みましたよ、一杯だけ。そして赤ワイン――はちょっと飲めなかった。なぜか? 理由は簡単、寝ちゃったんですよ。ワイン一杯で昼から寝てしまって、楽しみにしていた赤ワインとチーズを逃す。とんでもないショックな話です。
さて、窓下には海、そして島が見えてきます。香港はまだ少し先のはずですが、巨大ビル群の並ぶ島々は、発展する中国、アジアを実感させるに充分。やはり、これからのアジア経済の中心は、中国になるんでしょう。そんな予感さえしてきます。
それら島々に思いを馳せているうちに、飛行機はとっくに着陸態勢。飛行機を降りれば、そこはもう香港です。
ところで、ビジネスクラスでこんなに至れり尽くせりなら、ファーストクラスともなると一体どんなことになるんだろう?
飛行機が停止し、至れり尽くせりの空の旅も終わり。乗組員に挨拶しながら飛行機を後に空港ビルへ。機上でしたためた入国カードを、パスポートとともに入国審査員に渡す。入国審査は、そのいかめしい名前とはうらはらに簡単に済んで、いよいよ香港への入国です。
香港は、クリスマスを四日後に控えて、すっかり浮かれ気分。空港ビル内、動く歩道にかかった低いガラス張りの天井を通して、点々と一定距離を置いて並べられたクリスマスツリーが可愛かった。空港でこうなら、市街は一体どのようなことになっているのか、少々楽しみなのであります。
さて、今回はツアーでの参加なので、まずは空港入り口付近で一同集合。ツアーコンダクターは香港人の男性なのですが、まあこの人の日本語の上手なことといったら。まったく日本人といっても信じてしまうほどの上手でした。
コンダクター氏につれられ、一行はバスに乗車。その道々でツアーコンダクター氏のいうことには、香港はその日、記録的な寒さを記録したのだそうで、なのでいつもは着ないベストを着たのだそうです。そう、香港は南国なので、コートなんてまるで必要じゃない。着ていたとしても、ハーフコートだとかそんな程度です。ほんのわずか緯度を下げただけだと思うのに、ずいぶんと気候からなにまで変化するものだと実感。いやいや、世界は大きいもの、香港は近いといってもやはり遠いのですね。
空港から九龍並びに香港島には、鉄道及び地下鉄が出ていて、アクセスも非常に便利になっています。ですがわれわれ一行は、貸し切りのバスで九龍へとむかいます。空港島からランタオ島を経由で九龍へと向かうのですが、その道のりは非常に整備された高速道が一本につながっていて、実に快調に走ります。道の左右には、建築途中の巨大マンション群がひしめき合うように林立し、発展する香港を実感せずにはおられませんでした。
九龍に近づくにつれ、次第に交通量は増えていきます。街灯には、サンタクロースや雪だるまなどの飾りが付けられ、地味ながらもクリスマスの雰囲気が見えるようになってきました。
とまあ、ぼうっと窓外を眺めていたらば、バスの後方になにやら車高のやたらに低い真っ赤な車が近づいてきます。その赤い車というのが、フェラーリ。馬鹿高いことで有名な、イタリアのスポーツカーです。それがすいっと近づいてきて、あっという間にバスを抜いて遠ざかっていった。
香港には富豪がいるというのは、どうやら本当のことだったようです……
九龍市街に入ったバスが、ショッピングセンター風のビルに横付けされました。これから、このビル内のレストランで、昼食です。
バスを降りて、先導するツアコン氏に続き建物を二階、三階とあがれば、そこは広大なフロアに広がる飯店。円卓を囲む人人人、人の多さに加え、動き回る給仕の数もまた。にぎやかというかやかましいというか、とにかく活気に満ちた、勝手に思い描く中国、香港のイメージそのままなのがちょっとすごい。正直最初は、なんじゃこりゃとしか思いませんでした。
われわれツアーの一行は、窓際の二卓を占めて、これから運ばれてくるだろう料理にとりあえず思いを馳せる。窓外には、今し方通ってきた道と、その向こうに広がる海がきれいでした。料理が来る前に飲み物の注文を聞かれるのですが、最初から烏龍茶のポットがあったりするもんだから、誰も飲み物を頼まないんですよね。一卓には十二人くらい座っていたので、ポットがすぐに空になる。お茶がなくなったときの目印を教えてもらったのが、さっそく役に立つというわけです。
お茶が無くなったときの目印。それは、ポットの蓋を開けて置いておくというものです。給仕はそれに気付き次第、お湯を注いでくれる。でもお茶の葉を替えるわけではないから、だんだん味も色も薄くなるんだなこれが。放っておくとなんぼでもお茶をおかわりする僕にとっては、こういうおおらかさはむしろのぞむところ。でがらしにも慣れたもの、でがらしにはでがらしの味わいがあります。
驚いたのは、箸の太さ。日本の箸は先が大抵細くなっていますが、香港のものは菜箸くらい長くて太い。全体に同じ太さなので、細かいものがつまみにくく感じます。箸の置き方もちょっと違って、日本では自分の前に横にしておきますが、香港では右手側に縦置きです。
料理は大皿にのって、次々と出てきます。せいろにのった饅頭、ちまきがあれば、やたら太くコンニャクじみた麺も(多分、ビーフンの類い)、粉の麺もちゃんとあって、麺好きの僕にとってはもううはうはな状況。なんですが、できれば汁麺もあればよかったななぞと思ったのは、少々贅沢でしょうか。その後は、スープが出て野菜炒めが出て、そのどれもが思いのほか薄味で食べやすかったのはよかったんだけど、量が多すぎて食べきれませんでした。
僕は頑張ったんですけど、みんな小食なんですよね。譲り合う日本人の美徳がそこかしこに見られ、でも人間には限界があるのであります。なんか残すのって罪悪感があって駄目なんですよ。うん、ちょっと負けた気分……
昼食を終えれば、次はヴィクトリア・ピーク! となるはずだったのですが、時間がおしているということで、ヴィクトリア・ピークは後回しにして、先に黄大仙廟にいくことになりました。
黄大仙廟というのは、1921年に広州から移された香港最大の道教寺院。赤と緑に彩られた建物の外観に、日本にまで通ずる流れを見出したりするんですが、柱や欄間、屋根の装飾を見ればやはり日本のものとは大きく違う。お祈りに来る人たちの手に束にしてもたれた線香の大きさも、日本のものとは大違いですね。なんだか、ダイナミックです。
鉛筆ほどに太く、菜箸ほどもある黄色い線香は、さっきの昼食時の箸といい勝負でした。それをまた何本も束に持って、両手に振りながら、もうもうと煙をあげて歩いてくる。境内にいくつもしつらえられた祭壇を、順繰りにまわってお参りしている人は結構真剣な面持ちで、宗教が強く生きていることにちょっと嬉しくなるのでありました。道教では線香を三本ずつあげるのだそうです。でも、最後の最後で線香をあまらせてしまった人が、大量にあげているのも目撃しましたよ。ほほ笑ましい一シーンです。
本堂前にくれば、こちらもまたちょっとすごかった。本堂の前にはお祈りをするための一画があって、そこにはひれ伏して祈る人がとにかくひしめいているのです。お供え物もまたすごくて、もちろん食べ物が多いのだけど、鶏のまるごとなんかがあって、しかも線香が直接鶏に立ててあったりなんかして、驚くことしきりでした。日本で、こんなにまでしてお祈りしている人っているか? 香港では、本当に宗教が生活の中に溶け込んでいるのだと実感しますよ。
黄大仙境内には、占い師が列をなしているという通りがあるそうなんです。よく当たるとかなんとかいうのですが、そもそも占ってもらった結果を聞いて分かるのだろうか? 日本語で占ってくれる人もいそうな気もするんですが、そもそも時間がないということで、小半時ほど滞在しただけでわれわれは出発するのでした。ちょっと慌ただしかったけど、黄大仙廟は結構面白かった。やっぱ、僕は無類の宗教施設好きなんでしょう。
黄大仙廟を辞した後は、このツアーのメインであるショッピング! というか、それはツアーにとってメインであるだけで、参加者にとってはなんら楽しみではありませんでした。ほら、パックツアーにつきもののあれですよ。買い物すれば、そのうちの幾分かがバックマージンとして旅行社にまわるのでしょう。いえ、このシステムが悪いとはいいません。なにしろ格安で香港にこれたのですから。でも、欲しくないものは欲しくないんです。なので、少々退屈な時間を過ごすことになりました。
一件目は宝石屋でした。ビル全体が宝石の加工場になっているらしく、その一階部分に制作過程を見学させるデモンストレーション用の工房と、商品を陳列するスペースがしつらえられておりました。入り口付近はちょっとしたロビー様になっていて、次々と運ばれてくる観光客をここでさばきます。そこにも商品陳列の棚があり、豪華なのか悪趣味なのかよく分からないアクセサリー、置物の類いがひとくさり並べられてありました。
ツアーコンダクター氏によれば、この店のオーナーは世界一高いナンバープレートを所有しているのだそうです。香港では、縁起のいい数字を持つナンバープレートを高値で売買することがあるとかで、いわばそうして手に入れたナンバーがひとつの売りになっているとのこと。正直、金持ちの考えることは理解できません。僕は、そんなことにお金はかけられない。
さて、この店のメインとなる商品は、玉髄という宝石の一種です。といっても、僕はまったく興味が無いので、一通り店内を見て回って、廊下に飾られたオーナーとハリウッドスターとのツーショットをぼけっと眺めて、あとは時間一杯まで工房を見物していた。
もちろん僕はなにも買わなかったけれども、誰かなにか買ったのだろうか。誰かがなにかを買うことで、少しでもその旅行者に金が落ちていたらいいなと思うのでありました。僕はごめんですけど。
宝石店を辞して、次にいったのは絹製品専門店。どうやらここも、ビル全部が絹工房といった雰囲気。どうやら香港では、こういったビル全部が工房というスタイルが普通のようです。
一階フロアに商品が陳列されていて、やたら日本語に長けた売り子さんがやたらいるのも宝石店と同様でした。売られているのは、ハンカチ、ネクタイ、パジャマといった定番のものから、肌が奇麗になるタオルや肌着といった小物、スーツ、ドレスといった大物まで様々。店内に案内されて最初に受けたレクチャーによると、街で売られている絹商品には、少なからず偽物があるということ。その見分けかたを教えてもらえたのはありがたいけれど、まあ本当のところは、街で偽物を買わず、ここで本物を買っていってね、ということでしょう。申し訳ないけど、絹製品にも興味がありません。こよなく木綿を愛する僕でした。
不思議だったのは、ここは絹専門店だったはずなのに、どうしてパシュミナが売られているのでしょうか。パシュミナといったら、山羊でしょうに。それに、やけに安売りされてる。パシュミナって希少だから珍重されてるんじゃないの。いや、別に僕は買う気もなかったので、そのへんの矛盾は気にしません。日本で流通しているパシュミナの大半は実はカシミアらしいという話ですし。
ともあれ、安物の化繊のスーツを愛する僕です。一生懸命すすめてくれた絹のスーツだけど、そんな高価なもの、もったいなくてよう袖を通す気になれません。もしこれを買ったとしても、あっという間に右ポケットが文庫本でよれよれになります。なので残念ながら、この店でも僕は貢献することができなかったのでした。だいたい、僕みたいなものをこんなところにつれてくるというのがそもそもの間違いなんです……
三件目は薬屋にいきました。薬屋といいましても、滋養強壮の薬草酒といった類いのものを扱っている店。薬用成分が入っているので、わたくしの愛飲しております養命酒よりも効くとのこと。確かに、おちょこ一杯ほどを試飲しただけで、かーっとくるものがあります。けどさ、別にいらないんだよ。確かに体調は芳しくないんだけれど、このお酒はちょっと強すぎます。蛇が入ってますね、タツノオトシゴも入ってますね。その他動物性のもの、植物性のもの沢山はいってます。けど、こういう即効的効力は求めてないのであります。なので、残念ながらスルーせざるを得なかったのでした。
とはいえ、店内の説明ブース(何個もあった)に押し込められ、まわりを売り子さんに取り囲まれているわけです。いくつも薬を出して、どうですか、買いませんかとやられる。一度話を聞いてしまうと、断らなければならない。断っても断っても勧めてくるのは間違いないので、いっそ聞こえないふり、寝たふりで、うつむいてやり過ごそうとする。
なんだかなー。香港まで来て、苦痛の時間だなあ。欲しけりゃ、ほっといても買いますってばよ。おそらく、昔の海外旅行というのが特別だった時代は、みんなこぞって買い物したんでしょうね。そう考えれば、海外というのが身近になりました。目に映るものを、よりきらびやかにと彩る箔が落ちて、本当の意味での旅を楽しめる時代になったのかも知れません。
宝石店、絹製品店、薬屋を辞して、やっとこ観光に復帰。本日のメイン観光地であるヴィクトリア・ピークに向けて出発です。
本来の今日の予定では、昼食後にヴィクトリア・ピーク、黄大仙を観光、そして土産物店三店舗と免税店にいくことになっていました。ですが時間の都合から免税店は最終日にまわされることになり、九龍をまずめぐった後に香港島はヴィクトリア・ピークへいくというコースに変更されたのです。なぜ、ヴィクトリア・ピークが最後なのか? それは、九龍と香港島を繋ぐ海底トンネルがやたら込むから、なのだそうです。われわれの泊まるホテルは香港島にあるため、これが最も効率がよいルートとなります。
薬屋を出た時点ではまだ日も高く、九龍郊外を走るバスの窓外を寝ぼけまなこででも眺めている余裕がありました。この界隈は急成長地域らしく、とにかく工事が至るところでおこなわれています。道路工事に高層ビルの建築と、かつての高度経済成長期の日本を彷彿とさせる勢い。聞けば、この数年の香港の上客は、中国本土からの観光客であるとのこと。同じく経済成長著しい本土からは、気前もよくばんばん土産物を買い上げてゆく中国人観光客は、思えばかつての日本人の姿です。今不況に喘ぐ日本においては、よいものには金を出せても、中途半端なものに金を落とす余裕はありません。ある意味日本は斜陽の中で、成熟を見せはじめているのかも知れません。というか、そうでも思わないとやりきれない……
さて、この移動中に見た香港名物がいくつか。フェラーリに代表される高級車を販売する店が集まる一画がありました。香港の富豪はよい車に凝りたがるということで、フェラーリオーナーの会があるとかどうとか。加えて、早朝の高速道路には、高速走行を楽しむ彼らの姿も見られるとのこと。不思議な国なのであります。
そして、香港といえば忘れてはいけないことがあります。それは、香港は重要な眼鏡生産拠点のひとつであるということです。香港だけで作っているわけではないですよ。中国の安価な労働力に頼れるというメリットが大きいのです。中国より安価に供給される眼鏡が、現在のファッションシーンに大きな影響を与えているのはよく知られるところ。そのために、日本最大の眼鏡生産地である鯖江などは大打撃を受けているのでありますが。ともあれ、香港における眼鏡生産は世界的に有名です。なぜこんな話をするのかといえば、バスがまさにその香港における眼鏡生産拠点に通りがかったからであります。ビルの壁面には、華明眼鏡製造廠有限公司の文字。このビルがすべて眼鏡工房だという話で、だったらちんたら石やら絹やら薬やらまわるのではなく、ここにつれてきてくれればよかったのに(おそらくここでは生産のみで、販売はされていません)。
などと馬鹿なことを思っているうちに道路は渋滞気味、外はだんだんと暗くなってきて、寝入ってしまいました。一体いつトンネルを抜けたのやら。トンネルに差しかかるまでは憶えていたのですが……
うとうとと眠りながらもツアー・コンダクターの言葉に半分ほど耳を傾けていると、どうやらそろそろヴィクトリア・ピークに到着するとのこと。バスはぎたんばたんと九十九折りに山道を登っていき、僕は酔ってはたまらんと、片目で眠り、片目ではもうすっかり暗くなった窓外をちらちらと見やりながら、バスが目的地に到着するのを待っていました。山道といってもそれはもう観光地ですから、しっかり舗装もされ、時折灯りに照らされたバス停には、『千と千尋の神隠し』香港版のポスターなどが貼られていて、香港でも日本アニメは人気であると実感させるのでした。いくつかの千と千尋を見送り、そろそろ到着と思われたのですが、大観光地ヴィクトリア・ピークは人の山、車の山。バスの停まれる場所がないということで、一旦峠まで出て、再び戻るとのこと。正直バスからは早く降りたかったのですが、そういうことなら仕方がありません。
ヴィクトリア・ピークといっても、立ち寄った場所というのは山道の途中に少し開けた空き地のようなものでして、その狭いスペースに観光客は群れをなし、またその観光客目当ての土産物屋、写真屋の類いがひしめき合っているという混雑ぶり。人の多い場所の嫌いな僕は、それでもうちょっとげんなりしてしまって、でもせっかくきた夜景の名所ですから、見ないわけにはいかないとバスを降りるのでした。
夜景は、バブル華やかかりし返還以前の香港に比べれば、ずっとおとなしくなったと聞きます。ですが、訪れたのはまさにクリスマスシーズン真っ直中。あるビルなどは、外壁にクリスマスイルミネーションをあしらって、祭気分をアピールしておりました。
しかし、香港のにぎやか観光名所はちょっといけない。同道の旅行客に頼まれて写真を撮っていると、背後からは記念写真屋が一枚いかがと話しかけてくる。カメラは持ってきているので結構です、いりませんと答えてもしつこいのなんのって。なんど断ってもしつこく喰い下がってくるのは、よくいえば商魂逞しくバイタリティあふれているのだろうけれど、正直なところ鬱陶しくかつ失礼だ。こういうところでは、イタリアの no grazie と一言いうだけで、笑顔でしりぞいてくれた物売りたちが懐かしくなります。
あまり広くない物見台では、いずれ見るものも全部見切ったようになって、迎えのバスをぼけっと待つばかりになりました。土産物屋を見ようにも、ここで匍匐前進するGI人形を見る意味はないのであって、なんだかちょっと空しい。正直、そっとしておいてくれという気持ちが強かった。
ようやくやってきたバスに乗り込めば、箱は疲れた観光客を揺らしながら、山道を下っていきます。これで、初日は終了。明日からは自由行動とほっと安心したらば、またまた眠くなってきます。半醒半睡で窓外に香港市街を眺め、二階建てバスのハリー・ポッターの広告にふらふらと目を奪われていたりなどするうちに、ホテルに到着。さあ食事でもとのんきに思っていたこのとき、僕は自分の身に起こっていた異変にまだ気付いていませんでした。
ホテルは、新しくできた実に近代的なビルディングでした。長いエスカレータを昇りきれば広いロビー、そしてカウンター。昨日のホテルとは大違いの、豪華そうな雰囲気に気圧されます。ロビーでツアーコンダクター氏から次の集合時刻が案内され、ルームキーが配られます。次の集合というのは最終日の午前十一時。それまでは自由、自由です! ショッピングという束縛から解き放たれて、魂の求めるままに行動することが赦されたのです。
ルームキーを受け取って、エレベーターに乗り込むとそこは実にイギリス的でした(つまり1が日本でいう二階ということ)。目的階に到着。割り当ての部屋も実に近代的――冷蔵庫わきにはカップヌードルが用意され(もちろん有料)、テレビにはゲームコントローラーが(もちろんゲームも有料)! 素晴らしい、なんか俗っぽいところが成金っぽくていい。まさに香港という雰囲気です。
さあ荷物でも置いてちょっとくつろぐかとベッドに腰を下ろすと、ん? なんかちょっと違和感が…… なんかカメラバッグがべたべたしてる――と見れば、カメラバッグとズボンがガムでべったりとくっついてしまっている!――
やられました。きっとヴィクトリア・ピークです。記念写真屋かあるいは土産物屋か。売り付けに来たのを断ったための腹いせか、あるいはそれともすりの仕業なのか。すりだとしたらお生憎だな。ガムで慌てふためいている隙をつこうと思ったのかも知れないが、まったく気付かなかったからまったく被害はなかったぜ――いや充分被害を受けているか。しかし機嫌よく見物をしている観光客にこの仕打ちとは――! 腸が煮えくりかえりました。
ガムをこのままにしておくこともできません。ガムは氷で冷やして固めて取るというのがセオリー。カウンターにいって氷をもらってこないといけない。
エレベーターに飛び込むと、1を押し、いらいらと箱が停まるのを待ちます。停まればドアを蹴破る勢いで速足に階に躍り出、そこが自分の知らない場所というところに戸惑います。なんでや。左手を見れば階段がある。僕は階段を駆け降りるようにして、ようやくロビーにまで出たのでした。カウンターに寄ると、窓口にいた若い女性に氷はないかと、ガムを付けられたのでこれを取りたいのだと、英中語交じりでうったえました。ズボンにべたりと付けられたガムを見て、気の毒そうに眉根を寄せた彼女の表情に、多少僕の怒りも和らいだかも知れません。そして彼女は、氷は向こうのバーに行ってもらう必要があると、大量のティッシュペーパーを僕にくれながら教えてくれたのでした。
バーに飛び込むと、今度はバーテンダーに我が境遇をうったえる番です。ガムを取るために氷が欲しいのだと、再び英中混じりでまくしたてるのですが、うまく話が通じません。というのもやはりここは広東語圏なのです。僕の話すのは北京語なので、通じないのも仕方がない。とにかく氷が必要なのだと話をつけて、ティッシュペーパーを包んでいたビニール袋一杯に氷を入れてもらいました。謝謝、サンキュー。自室へと戻りました。
ズボンを脱ぎ、ズボンと鞄に付けられたガムに氷袋を押し付けて冷やします。表面が固まったらへらでこそぐようにして削る、また冷やす、また削る、これの繰り返し。しかしなぜ香港まで来て、飯も食わず、こんな馬鹿馬鹿しいことに時間を費やさねばならんのだ。再び怒りは高まる一方。もう収まらない、収まるはずもないというもの。またガムが奇麗に取れないものだから、重ねて腹が立ってくる。もう駄目だ、この恨み如何に晴らしてくれようか。
誰か、ぼこぼこにしてやらねば気が済まない――正直そう思って過ごした香港なのでありました。
むかついて腹が立ってもお腹が空くのが人間です。けれど今日はたくさん移動して疲れているので、それほどたくさん食事はいらない気がする。いや頭に来てるからというのも理由のひとつなんだけれども。
ホテルは香港島の外れにあったので、あたりは随分とおとなしい感じがするのでした。車も人もそんなに多くない夜の市街を、ぶらぶらとなにがあるか分からないままに歩き回って食事処を探す。香港の外れといっても、飯店、雑貨店の類いはたくさんあります。加えてセブンイレブンもあって、ちょっと驚かされるのでありました。
しかし、そういった風物も全然目に映ずる景色もなく、どたどたと足音も高く前のめりにして歩き回る僕は、未だ怒りの権化です。だがとにかくどこかで腹は満たさなければならないと思うところに、ちょうど手ごろそうな麺店を発見。今夜ここで軽く食事をしておこうと、取りあえず席に着いたのでした。
店内はテーブルが十卓弱ほどもあったでしょうか。他には客のすっかり絶えた店の奥で、片言の英中文でもって店主とどんなものがあるのかを談判、注文を出しました。じきに出てきた麺は細く、スープもあっさりして、京都育ちの僕には非常に良い感じ。雲呑麺を頼んだのだが、それが海老団子様になっていて、これもまた非常においしい。量は少なめでしたが、今日にはちょうどよいくらいの量で、お腹を満足させるには充分でした。
とそのとき、入り口近くのテーブルに高校生くらいかの男女が着いたのでした。いや、別に彼らがどうしたというわけではないのです。問題は、女学生が鞄から取りだした漫画でした。漫画? なぜ漫画とわかったのかというと、それがCLAMPの『ちょびっつ』の単行本だったから。いや、驚きました、装丁が本国で見るものに変わらないので、日本版を取り寄せているかとさえ思うほどでした。しかしその様子を遠巻きに観察すれば、やはり香港版のようであります。ああ、そうか。日本の漫画は、ここまで香港で珍重され、大切に移入されているのかと感心するとともに、あれほど収まらなかった今日の怒りが、すうっと引いて、普段通りの温度を得ることがかなったのでありました。
つい先ほどまで、ここですりでも出たら打殺してやるとばかり考えていた男が、こんな些細なことで収まるのだから、人間というのは単純です。いや、しかし、その女学生には感謝、感謝。こうしてまた心機一転、楽しい香港の旅の再開です。
食事が終わるとあとはホテルに帰るだけですが、ただ帰るというのもなんなのでそのあたりをぶらぶらと見て回りながら。その界隈には、地元の伝統的っぽい焼き菓子屋や飯店、雑誌スタンドなんかがちらほらとあって、それなりに楽しかったのでした。
けれど残念なのは、もう夜も随分とふけていたので焼き菓子屋なんかは閉店してしまっていたこと。買い物は、セブンイレブンで水とそして日本のサブカルチャーを扱う雑誌――PCゲーム誌とプラモデル専門誌の二冊だけでした。実はもっとたくさん買おうかとか思ったりなんかしたのだけれど、普段買わない雑誌を山ほど持ち帰ってもしようがないし、それに今回はそれほど資金の余裕がないときている。という理由から、最もコアそうな二冊をチョイスしたのでした。一冊は本国版の翻訳、もう一冊は香港編集もの。こちらでもガンダムは人気そうです。
明日の朝食は朝粥でもと思って、飯店の店頭に掲げられたメニューを見ていたら、店主のお姐さんが挨拶に出てきてくれました。なにか食べるかというので、さっき食べたというようなことを片言にいいあって、明日朝に粥を食べにきたいのだがあるかと聞いてみるのでした。確か普通話ではアオハオとかいったっけかなと記憶を頼って聞くも通じず、「粥」と文字に書いて提示したら、「チュ」とえらく強い調子で返されて、そうか香港では「チュ」というのかと思いながら重ねて聞くと、朝のメニューに粥はないとのことでした。
それはちょっと残念、けれどこれも仕方がないと笑顔でわかれてホテルに帰り、今日は早く寝ることにするのでした。テレビでは日本のミュージッククリップ、アニメはついぞ見付からなかった。旅先の朝は早いので、風呂から出ればすぐに就寝です。
「確か普通話ではアオハオとかいったっけ」、これ大嘘です。アオハオは漢字で熱好と書き、意味としては「よく火を加える」といったところ。つまりよく煮込んだというわけなのでありました。以前習った中文テキストで、粥熱好了――お粥ができたよ、というのがあったのを、部分的に覚えていた――その部分的というところがまずかったのでした。なお粥は北京語では「zhou, ツォウ」、広東語とどことなくにています。手元の本を見れば、粥に「ジョッ」とルビうちがされていて、しかし僕には「チュ」にしかきこえなかったのだがなあ。外国語の仮名書きはかくも難しいのであります。
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