メールは便利で手紙よりも気楽。そのようにいわれたのはずいぶん昔のこととなってしまったようで、今ではメールでさえも重くなってしまった。友人相手ならいざ知らず、さして親しくない人にメールを出すのは大変な大仕事と感じられる。突然のメールが無礼になるのではないか、私のこれから書こうとしていることは押しつけがましいことなのではないか。軽い書きようをすれば、友達でもないのに馴れ馴れしいと思われて、返事が返ってくれば、逆恨みするような相手なら危ないからという防衛行動によって書かれたものならどうしよう、とここまでくればもう被害妄想の域だが、私は実際ここまで考える。こうした思考の流れは対人恐怖症にそっくりで、対人恐怖というのは人に会うのが怖いんじゃない。嫌われてしまうんじゃないかという思いが重荷になって、人に会うのがしんどくなるのだ。その意味で、私にとってメールとはまさに恐怖である。ここまでは昨日書いた。
その点、web拍手は巧妙な仕組みであると思った。好意を示すのに言葉はいらない。メッセージを送っても、誰が送ったかまでは通知されないから好きなことを書ける。馴れ馴れしくても構わない、しくじったとしても後を引かない。新参のように書いてもいいし、いつもの誰かとほのめかしてもいい。書き逃げ上等。これが私の愛する仕組みの正体だ。
この感触は、あの匿名掲示板群に似ている。誰が書いたかは一般に知れないから、好きなことを書ける。男にもなれるし、女にもなれる。一時の熱狂に身を任せても、次の日にはもう知らんぷりしていられる。
匿名掲示板がはやり、web拍手もはやり、この国の人たちはずいぶんナイーブになったもんだと思う、だなんて私がいっちゃあいけないんだろうけれども。匿名でいられるということは軽く自由な感じがして、けれどもそれは、関係を深められる可能性と引き換えに手に入れたもんだということを、私は時々考える。