前章の最後で到達した、アドルノの指摘する聴取という行為が堕落した状況、しかしこれは現代の音楽状況だけに見られるものではなかった。ハイドンがコヴェント・ガーデンの聴衆のあまりの騒がしさに辟易したのは有名な話であるし、十九世紀初頭の音楽シーンはサロンにおける名人芸や甘ったるい旋律、有名作品の要素をかき集めたパラフレーズ作品、など、アドルノが現代、ポストモダンの聴衆を批判する際に用いた「物神的」という性格に主導されていた1。アマチュア音楽家が増大し、その需要を請けて彼らアマチュア音楽家をターゲットとした楽譜や教本といった類のものが大量に出版され消費されていったのもこの時代であった。
アドルノが基盤とする厳格な音楽聴取は十九世紀、いわばハンスリック以降に整備された新しい、後期ロマン派の産物であった。そしてそれは音楽を E-Musik 真面目な音楽と U-Musik 不真面目な音楽を分別する契機となり、ここに正統的という音楽の本流が設定される。この厳格な音楽の構造的聴取は音楽の本流における中心的なスローガンとなり、この聴取に耐えられない大多数の「音楽大衆」は U-Musik に流れ、そこで表層的聴取を続けたのである2。アドルノの、そしてグールドの求める「構造的音楽聴」とは十九世紀後期に出現した一握りの音楽エリートに特有の聴取のスタイルだったというわけだ。
音楽聴取層が増加することによって多様な音楽の聴かれ方が生じた。これは現代の複製技術がレコードという手段で聴衆を開拓、聴取層を増加させたという例に顕著に見出されるが、これも決して現代のみに限った現象ではない。過去においても、産業革命とフランス革命以降台頭した有産市民階層と、彼らの芸術参加による聴取と音楽への関わり方の多様化という例が示すように、この現象は時代とともに段階的に進行していたのだ。
しかしこのような状況を充分に考慮したとしても、あえてアドルノの見解が現代の音楽状況を的確に捉えているという見方をやめることはできない。
渡辺裕が著書『聴衆の誕生』で報告する、差異によって価値が生じるという「カタログ文化」における「軽やかな聴取」3、そして庄野進のいう「たちあい」4は新たな音楽聴の可能性を見出したものであり、その主張はグールドのバックグラウンド・ミュージックに期待した、音楽の「時代的特徴」などを「無視し」それらを「カタログ」化する効用、に近いものである5。
ここでは音楽、あるいは音そのものが聴取の対象となり、それらに付与されたさまざまな情報――演奏者が誰であるとか演奏されたとき、曲がつくられたときのバックグラウンドであるとか――は巧妙に消し去られているか、残されていたとしてもその音楽自体に関わる問題ではなくなっている。残されているそれらの情報はアドルノのいうところの通人を気取る際や商品宣伝を行なう際の物神、記号としてあるのだが、この様な音楽外的な情報、意味、記号が剥奪された後に残る音楽そのものを聴くという姿勢は、グールドの「ファン・メーヘレン症候群」が批判する権威に左右される聴き方の対極に位置するものであり、ある意味グールドが望んだ聴取の在り方に近いものである。しかし現在進行しているそのような聴取の中には、その聴取という行為が抜け落ちてしまいかねない、純粋な消費となったものがあるのだ。そしてアドルノが捉えたというものこそは、音楽の物神化、パッケージとして商品化された音楽が徹底的に浸透した状況に見出されるもの、音楽が聴かれるという本来の目的を失いながら消費されているという状況、なのだ。
グールドのいうように複製技術によって音楽は聴衆により近しいものとなり、音楽は日常品としての位置を獲得した。しかしその反面その日常性は芸術の芸術としての権威を喪失させる契機となり、さらに一回性と歴史的証言力が複製技術とそれが可能にした反復によって打ち消されることによって、「作品の持つ権威そのもの」さえ失われることとなった6。日常のものと化したこと、複製技術の「複製の対象を伝統の領域から引き離してしまう」7性質、それらにより、音楽の受容の方法はまさに伝統から離れさまざまな様相を見せることとなった。
音楽を聴くために演奏会へ出向く必要がなくなったことはいうに及ばず、バックグラウンド・ミュージックとしての無意識的聴取、他事に従事しながらのながら聴、さらにはメディアとオーディオ機器の進歩によって可能となった音楽を持ち歩きながら聴くなどというさまざまな聴取の方法が生じ、一回性に支えられた演奏会独自の価値や構造的聴取といった芸術の権威は崩れてしまった。しかしそのために上記のながら聴や無意識的聴取などの、十九世紀的な権威に支えられた音楽の在り方からは考えられない、表層的として排除されてきた聴取がはからずも復権されることとなった。あらゆる権威から解き放たれて、聴き手は自分自身がやりたいような聴き方を選択し、まさに自分勝手な聴き方ができるようになったのだ。
これは決して悪いことばかりではない。権威や伝統によって否定されてきた新たな聴取が復権し、それらの価値が確認される契機となった事実、さらにファン・メーヘレン症候群に陥る心配からも解き放たれて、個人が個人のために音楽を求め自身のために音楽をコーディネートすることも可能となったのだから。
だがしかし、権威や伝統が弱体化している今、本当に個人の意思が発揮されているかどうかといえば、それはたいへん疑わしいのが現状だ。そしてここにアドルノの危惧した状況が見出される。ここでの個人というものは、あくまで自分個人の意思にしたがい行動しているつもりでありながら、結局はマスに取り込まれてしまっている、つまりはアドルノのいう無批判、無抵抗に「自分たちに押し売りされるもの」8を求める音楽大衆に成り下がっているのだ。
権威や伝統は弱体化し、音楽にまつわる情報は音楽自体に関わるものではなくなってしまったものの、逆にそれらは宣伝材料として利用されるものとなってしまった。結局、形骸化しながらも、権威や伝統、諸情報は依然強く求められている。それはグールドの否定的に捉えていた、「レコーディング独自の慣習」9では消え去るはずだった巨匠やヴィルトゥオーソ性、歴史的日時であった。グールドのコンサートドロップアウトの翌年にリリースされたホロヴィッツのライブ盤『ヒストリック・リターン』は、まさにグールドのレコーディングに期待していた匿名性、脱時間性の逆の方向へと向かうものの典型であった10。そして現在に到っては当のグールドさえもその宣伝材料としての巨匠、伝説に組み込まれてしまっている。レナード・バーンスタインのグールドの解釈に対する反対の声明が録音された「幻」の「歴史的録音」がその歴史的特定性と、彼、グールドの名前により高らかに宣伝、発売されるに留まらず11、グールドのレコードは新たなCDというメディアに変わったにも関わらず、発売された当初のレコードのジャケットを縮小復刻するというかたちで、まさにコレクターズアイテムとして売りに出されている12。音楽自体に出会うことを求め続け、何よりも聴かれることを目指した彼の演奏は、彼の企てた「隠し財宝計画」13の報いを請けるがごとく、物神と堕してしまったのだ。
物神と化した音楽は、アドルノのいうように、商品として流通する消費財と化してしまった。そしてその消費財としての音楽は、個人消費の名のもとに大衆を構成する個々によって個別に消費され、そのことが大衆として一括りにできる集団を破壊した。むしろ「分衆」として理解されるそれ14は、分衆一つ一つの小さな社会でのみ通用する狭い了解のもとに音楽を消費している。そしてその分衆はまたマスとしての消費社会によってコントロールされる、アドルノのいうエセ能動性につき動かされる個人の寄せ集めでもあるのだ。
現実は、グールドの望んだ個人による音楽を、大衆を細かに分衆に分けそれぞれ個別の音楽行動をとらせるという傾向に変化させ、さらにそこにアドルノのいう個人の解消を折衷させるかたちで進んだ。大衆は、「徹底して自分本位の」15という点でグールドの、「個人主義の下落」16という点でアドルノの、いわばそれぞれの悪い点だけを選って受け継ぐことにより、分衆へと変化したのだ。
現在、広い意味での音楽社会は、大衆が分化したのと同様に、分裂して存続している。そこではポピュラー音楽や流行の音楽と呼ばれるものであっても、今やそれが文字どおりポピュラーであるとはいえない状況が生じている。
現在の消費社会のシステムは多様に分化した分衆のうちからもっともマーケットの見込める分衆に目を付けその分衆の好むものに的を絞ることにより、特定の分衆だけが優遇され、他の購買力に劣る分衆は疎外されるという状況を生み出すこととなった。先のグールドのCDがレコードジャケットの復刻版の体裁をとったというのは、この様な特定の限られた分衆のみに向けられた消費を促す記号として理解される。そして、たとえ百万枚のレコードセールスを記録した音楽であっても、それが特定の分衆に対してのみ語りかけ、消費されるものであるために、結局その特定の分衆にしか知られていないというかつては考えられなかった現象を起こすようになっている。
グールドのいう「レパートリーの増加」は確かに実現した。それは現在リリースされているレコードのカタログをみれば、その項目の多岐にわたることからも確かであろう。しかしそれは、あまりに多様を極める分衆のそれぞれの好みをカバーしたのみに留まるものに過ぎず、実際、それぞれの分衆においては、アドルノの批判した「レパートリーの縮小」を来たしてしまっているのだ。分衆は、自身に向けられた消費財にのみ目を向け、その他の可能性を自ら疎外している。クラシックしか聴かない層があると思えば、ポップスしか聴かない層があり、それぞれの分衆は自らが選んだ特化した音楽にのみ目を向け、それ以外の音楽を聴こうとはしない。以前はそれはクラシックやジャズなど、ある意味特殊化された音楽に見られた状況だったが、今ではあらゆる音楽ジャンルがこの様な状況下で細分化されているのであり、その各ジャンルにおいてもさらなる細分化が起こっている。多くの層に広く語りかけ、知られる音楽は失われてしまった。
消費させる側は消費のターゲットから外れた分衆を疎外し、消費する側は自身が属する分衆に向けられない消費財を疎外するという、互いが互いを疎外し合うという状況が出現しているのだ。
そしてその消費の現場では、聴かれることよりも所有されることを目的とした、コレクターズアイテムとしての価値によって消費される商品さえ出現している。主に限定版として売りに出されるそれらは17、複製技術により失われてしまった「オリジナルの「いま」「ここに」しかないという性格」、「「ほんもの」としての権威」18を意識的に復興、復刻しようというものである。擬似的な「アウラ」19をまとったそれら複製商品はその限定品であるという性格ゆえに消費を促進し、それらの消費者は、まさにアドルノのいったように、その音楽にではなくその限定品であるレコードを「買うことができた」ことに満足する「商品形態によって支配され」る「エセ能動」的な大衆であるのだ20。
以上に概観した音楽状況はグールドが望んだ環境が、ある一面において生み出したものである。そのことを指して、この様な状況をグールド的状況と呼ぶことも可能かもしれない。しかしあくまでもこの状況下において、グールドが真に望んだ音楽の在り方は立ち現われてはいないことを忘れてはならない。この論文の副題である「20世紀後半における音楽受容の一局面」を概観するという意味のみでいえば、以上に述べられたものをして現代の音楽受容の在り方だということもできるのかもしれない。だがこの論文はあくまでも「グレン・グールドの音楽思想」なのである、ここで終わるわけにはいかない。
グールドが望んだ個人が個人のためにテクノロジーを奉仕させ、聴衆の一人一人が芸術家となり、彼らの生活が芸術となるような世界、それが実現されなかった理由として、アドルノがテクノロジーによって引き起こされると恐れた「個人の喪失」を求めることができるだろう。アドルノの悲観した音楽状況においてもっとも問題であるのは個人の主体が失われることであり、個人が個人でなくなったことがエセ能動性、消費社会の求める消費させるための消費、につき動かされる大衆を生み出さしめたのだとしたら、その個人が個人として立脚する社会においての音楽はどのような在り方を示すのだろうか。
グールドがいったことは、音楽とテクノロジーが出会うことによって生じる可能性だけではなかった。グールドの求めた孤独と、彼の音楽の在り方、それ自体の中にこそグールドの思想の中核となるものが潜んでいる。
グールドのいう「孤独」、そして彼の音楽についてを以下の二章で考察することにより、彼の求めた音楽の真実は明らかとなることだろう。そしてそれは悲観的な現代の音楽状況を打開する契機となりうるかもしれない。
1 ジャック・ドゥリヨンは「グレン・グールドとフランツ・リスト――究極のピアニスト」において、リストがサロン的作品、娯楽用パラフレーズ小品を弾くときに恥じて已まなかったという事例を報告している。ジャック・ドゥリヨン「グレン・グールドとフランツ・リスト――究極のピアニスト」 浅井香織訳,ギレーヌ・ゲルタン編『グレン・グールド 複数の肖像』(東京:立風書房,1991年)所収【,39頁】。
2 大崎滋生「過去の音楽の復興――復興の社会的基盤」『音楽演奏の社会史――よみがえる過去の音楽』(東京:東京書籍,1993年)所収【,46-68頁】。
4 庄野進『音へのたちあい――ポストモダン・ミュージックの布置』(東京:青土社,1992年)。
5 グレン・グールド「レコーディングの将来」野水瑞穂訳,ティム・ペイジ編 『グレン・グールド著作集2――パフォーマンスとメディア』(東京:みすず書房,1990年)所収【,166-168頁】。
6 ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」高木久雄,高原宏平訳,『複製技術時代の芸術』『ヴァルター・ベンヤミン著作集2』(東京:晶文社,1970年)所収【,12-14頁】。
8 テーオドール W. アドルノ「音楽における物神的性格と聴衆の退化」三光長治,高辻和義訳『不協和音――管理社会における音楽』(東京:音楽之友社,1971年)所収【,43頁】。
10 オットー・フリードリック『グレン・グールドの生涯』宮澤淳一訳(東京:リブロポート,1992年),176, 380-386頁。
グールドは自身の理論を否定するこの『ヒストリック・リターン』に復讐するべく、CBSに自身の企画を売り込んでいた。それはライブ録音を茶化すための聴衆の咳や実況中継などに充ちたしろもので、CBSは当然のことながら却下している。しかしグールドは自身の『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』の二枚目のレコードに「グレン・グールド・ファンタジー」というドラマを収録し、その中で自身の「ヒステリック・リターン」を描くことによって、念願の復讐を果たしている。
宮澤淳一「『シルヴァー・ジュビリー・アルバム(増補盤)』」に寄せて」(録音解説)グレン・グールド『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』(ソニー・ミュージックエンターテイメント SRCR 2289-90, CD, [1998年]),別冊解説書,3-6頁。
またアンドルー・カズディン『グレン・グールド アット ワーク――創造の内幕』石井晋訳(東京:音楽之友社,1993年),312-318頁。にこのアルバム出版についてのいきさつが記されている。
11 ヨハネス・ブラームス,《ピアノ協奏曲第一番ニ短調作品15》;グレン・グールド(ピアノ) レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(ソニー・ミュージックエンターテイメント SRCR 2278, CD, 1962年録音,1998年発売)。問題のスピーチはトラック1に収録。
12 しかもこれらは千枚限定というコレクター心をくすぐるキーワード付きである。
13 カズディン,前掲,312頁。第一章第三節も併せて参照。
17 ちなみにグールドのLDは日本では限定商品として売られていた。