グールドはその生涯を通じて、孤独を追い求めていた。
コンサートを否定し、コンサート活動から引退した彼の生涯のステージとなったスタジオは、外界と隔絶されて一人で音楽に向かわせることを可能にする孤独の場であったし、彼が制作した独特のスタイルを持つラジオドキュメンタリー、対位法的ドキュメンタリーには四人の音楽家を扱ったものとともに、『孤独三部作』と呼ばれる、孤独という環境とそれを選んだ人たちのインタビューによって構成された作品、がある。そして彼は死の前年、1981年12月に、ラジオで極東は日本の作家、夏目漱石の『草枕』第一章を自ら朗読している。
これらは一体何を示すものだろうか。
いうまでもなくこれらの行動、作品をつなぐキーワードは孤独である。そしてこの孤独を求め、自らの生活をさえ孤独のうちに送った彼の真意はこれらをひとつひとつ紐解いてゆくことによって明らかとなっていく。そしてその真意とは彼が求めて已まなかった芸術的生活、人生を芸術とすることであった。
それでは彼の人生における孤独の意味を探求する試みを開始することとしよう。
グールドは何よりもまず、孤独という状態が自分には必要だと考えていた。これは彼にコンサートを捨てさせ、隠遁生活ともいえる他者や周囲から隔絶した生活を選択させたことのもっとも根本になる理由であった。だとしたら、彼が孤独を求めた理由とは何だったのだろう。
グールドは1964年に発表されたベスターの記事へのインタビューで、「人の存在は」「歳をとるにつれて、だんだんと必要がなくなってきた」と答えている。それは「対立とか対照といった概念と」無縁でありたいという彼の望みの表れであり、その望みをかなえる場として「修道院の個室」――「レコーディング・スタジオ」での活動が選択された。そしてそのインタビューの続きでは、「本質的に」「自分の思ったとおりの人間にな」るために「完全な孤独の中で暮らしたい」と語られている1。
この「対立とか対照」と無縁でありたいという彼の願いは、彼の求めた孤独を理解する上で非常に重要なものである。つまり逆にいえば彼は孤独でない状態において、あるいは外界と関わり続けているかぎりには「自分の思ったとおりの人間にな」ることは叶わなかったのだ。
グールドは演奏旅行のたびにピアノの調子が変わることや身体の不調に振り回されていた。「どこのホールもみんな極端に暑いか寒いかのどちらかだ」2とぼやき、テル・アヴィヴでの「音はいいんだけど、アクションが極端に気むずかしい」3という最悪のピアノの例や、暖房がなかったためオーバーコートとスカーフ、手袋着用の上で臨んだエルサレムのコンサート4、1958年のヨーロッパツアー中の気管支炎、そして腎炎を患い入院した体験5、指揮者朝比奈隆の追憶に現われる体調を崩し厚着のままリハーサルを行なったグールド6、それらどれをとっても彼の人生には不調というものが付きまとっており、自分がやりたいと思うことをそれら彼の前に立ちふさがってくる現実によって疎外されてきたことがわかる。
しかし、これらの病気や不都合というのをすべてそのまま受け入れるわけにもいかない。というのは、彼は自他ともに認めるヒポコンデリーの持ち主であったという事実のためだ。ヒポコンデリー――心気症とは、実際には病気でないのに自分を病気だと思い込み、心身の不調、病気の兆候などを恐れる、神経症の一つである。このヒポコンデリーであるためにグールドは、「人込みの中のように何が起こるかわからない」状況では不安に陥ったし7、多種多様な、実際には発現していないはずの、症状に苦しんだあげく、その闘病の記憶から生じる恐怖症のためフィラデルフィアでのコンサートをキャンセルするまでに到った8。
このように、彼、グールドは現実的な側面、おそらく実際に身体が虚弱だったことと、それ以上に精神が環境の変化に耐えなかったことから、実質コンサート活動を続けることは不可能に近かったのだ。
しかしこのグールドの人嫌い、環境と相容れないさまをもって、単純にグールドの孤独を理解しようとするのは早計だろう。確かにグールドにとって現実は過酷なものであり避けるべきものであったが、彼が「自分の思ったとおりの人間になれ」ないというのは、決してこの様な外界と自身が相容れないというためだけの問題ではなかったのである。
グールドがコンサートを否定したのは、コンサートに二度目がない、つまりはコンサートにおける一回性のためであり、また聴衆の中に音楽を聴くのではなくソリストが失敗するのを見るために来ているような人間がいる可能性のためであったが、それだけがすべてではなく、既に記したように彼がコンサートに耐えられないためというわけでもまたなかった。
グールドがコンサートを否定した理由、そして彼が孤独でないため「自分の思ったとおりの人間になれ」なかった理由を知るために、彼が1957年にレコーディングしたバッハの『パルティータ第五番』に対し彼自身が行なった批判を参照することにしよう。
「クレッシェンドやディミヌエンド、そして類似のバッハ的ではない装飾を」「あるいは、楽句や楽節の区切れを強調するために、終止形を誇張して弾く等々」の効果を、そんな必要もないところへ加えたため、その1957年の録音はその三年前に録音した「技術的には、一九五七年のものよりよかったわけでは」ない同じ曲に比べ、音楽的まとまりを欠いている。その曲に「不必要に美辞麗句を織り込んだ」のは、「コンサート体験の間」「件の曲を」「大変大勢の聴衆の前で演奏しなくてはな」らなかったためであり、「非常に広い音響空間で演奏すること」「一番前の列にいる人たちから、天井桟敷の人たちまで、同時に聞かせようとして演奏」してきた結果、「不必要なパーティー用のおめかしが、そこかしこに顔を出」す「冗舌で軽薄な」ものになってしまったのだ9。
この様な説明をするグールドにとってコンサートは、「悪い解説的な癖が身につ」10いてしまうといった、音楽自体を表すという目的に対し悪影響を及ぼす体験にほかならなかった。このためグールドは音楽の本質に向き合うため、自意識過剰になり余計な見せびらかしをさせる聴衆のいない環境、スタジオの孤独を選んだのだ。
グールドは自身との対話の中で「聴衆と一対一の関係を持つ喜び」や「聴衆と意思を通わせる特権」といった、聴衆との関わりについて水を向けるインタビュアーのグールドに対し、「経営面からいえば、二千八百対一の関係がコンサート・ホールの理想」であり音楽の面からいえば「聴衆とアーチストの関係としてはゼロ対一の関係」が理想的だと答えている。この発言の真意は「アーチストは無名の存在であ」ることが望ましく、「人知れず、市場の要求についての思惑にわずらわされず」「それを意識もせずに活動すること」が必要であるという、先ほどまで述べてきた演奏する側からの孤独の必要性を再びなぞるものであるのだが、この続きではさらに「無関心なアーチストが十分多」くなれば「市場の要求などはきっと消滅」し、その結果「大衆」はアーチストである演奏家に「卑屈に依存する役割から下りる」と、まさにテクノロジーの恩恵により「階級的な意味合い」が消失するというそのことについて触れられているのだ11。
演奏者、聴き手、そのお互いがゼロ対一という孤独の中で音楽と向き合うという体験によって、階級や他者からのお仕着せである「市場の要求」やコンサートでの聴衆の反応といったしがらみから解放されるのだ。
またエリス・マックのインタビュー記事においては、グールドは演奏者と聴き手の関係は一対一であることが望ましいと述べている。しかしこの一対一というのは、先のインタビュアーであるグールドがいった「一対一の関係」とは意味合いが異なっている。グールドとの対話の中での「一対一」とはマックのインタビューにおいて「演奏者と聴衆が一体になった結果生ずるはずの、かの神秘的な不可思議なひらめきの瞬間」に他ならず、グールドはといえばそのような瞬間は「僕には決して訪れなかった」と告白しているのだ。仮にそのような「特別な感じに襲われる瞬間」があったとしても、そしてそれは「尊敬すべき指揮者と協奏曲を弾いている時とか、特にいいホールでソロの作品を弾いているときなどに」実際におこったのだが、「それは、聴衆がいたために起こったわけでは」なく「リハーサルや練習のときにも起こることは同様にあり得たので」ある。そして「一人の人間が存在するだけでも、見せびらかしたくなりがち」になり「実際の演奏の邪魔になること」は先に述べられた『パルティータ第五番』の例に同様である12。
このように聴衆やステージ、大きなコンサートホールというものが、彼にとって自意識に目覚めさせ、音楽自体の要請に沿わない「おめかし」をさせる契機となるものであったというのならば、彼をして自らを聴衆と隔絶し、音楽自体の探求へと向かわせたのは当然のことといえる。そしてそれは聴衆の側においても同じことなのだ。
このマックのインタビュー記事でグールドがいう「一対一という側面」13とはすなわち聴衆がテクノロジーを介し一人で、「八フィート離れたマイクロフォン」14に向かって演奏した奏者と対する、この「一対一」の関係を指している。
孤独によって音楽に関する音楽外的な思惑から解放され、音楽自体に目を向けることができるという理論は、決して演奏者に特有のものではなく、聞き手の側においてもまた同様であった。グールドはコンサート活動から足を洗う二年前の1962年に「拍手喝采おことわり!」という演奏会における聴衆の態度の在り方について書いた文章の中で、「拍手喝采およびあらゆる種類の示威行為を廃止するためのグールド計画 the Gould Plan for the Abolition of Applause and Demonstrations of All Kinds」15――略して、GPAADAK計画――を発表した。この冗談のような計画は、しかしその見かけとは裏腹に聴衆のとるべき音楽への関わり方、態度を示唆する重要なキーワードであるのだ。
グールドが拍手喝采、あるいは演奏に対し気分を害ねたことを表明する「ひじょうに不愉快な合唱」16――ブーイングの類――に疑問を呈するのは、何も自身の演奏にそのような反応を持って応えられることに不快感を覚えたためではない。グールドはそのような反応によって、聴衆一人一人の音楽に対する見方、音楽との関係が左右されることを恐れているのだ。彼はこう説明する。
「拍手喝采などの聴衆の応答」をなくしてしまわなければならない17のは、「民主主義」という「大衆支配」の中で、その演奏に対する「自分の意見を表明」することが他の観客に対し影響を及ぼしてしまう、あるいは意図的に「音響独自の心理学的効果を」ねらって「支持者もしくは反対者を戦略的に配置」し「ここぞという頃合いを見計らって、賛否いずれかの声をあげさせ」ることによって「何百という同調者の大合唱」さえ巻き起こすことのできる可能性があるためである18。グールドの例えによれば「かなりの才能に恵まれた」「カナダ人作曲家による新しい協奏曲のお披露目」に際して、「歴史学者というインテリ先生」が不満であるという「自分の感想をおおっぴらに口に出した」ことが、教授のご機嫌をとるために同調した学生たちの唱和を招くこととなってしまい、その演奏に対する評価に音楽外的な側面からのバイアスがかけられる結果を生じさせてしまった。そしてグールドは「聴衆のなかでこうした種族が繁殖しつつある」ことを危惧するのだ19。
これなどはグールドが批判した「ファン・メーヘレン症候群」20の今一つのかたちであるともいえるだろう。
またグールドは聴き手の立場からコンサートを、「音楽は、プライベートに聞かれるべきもの」であり「グループ療法その他、集団で体験するものといっしょに扱うべき」ものではないと批判する。そして彼にとって「音楽は、聞く者を――そして」「演奏者をも、瞑想の境地に導く」ものであり、「他の二九九九の魂に取り囲まれている限り、その状態に達することは」不可能であるというのだ21。
そうつまり音楽は「内省的姿勢」22でもって受けとられるべきものであり、決して「風の吹く日に日なたに出たとたんにくしゃみが出るのと同じ」ような「天然自然の反応」23や「敵意に満ちた蛮声」を「芸術に対して」あげさせる「原始の本能」24であってはならないのだ。
グールドにとっては、演奏者としての立場からも、また聴き手としての立場からしても、音楽の本質、音楽自体を求める限り、孤独は欠くことのできない条件であったのだ。
グールドはいう。
芸術の目的は、神経を興奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。25
芸術とは、決して一時的な興奮や環境のうつろいに心を囚われてはならないもの、「ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題」26であるのだ。
そしてもう一つのグールドの孤独のかたちが存在している。
それはグールドが何かにつけ表明してきた「北」への憧れである。グールド自身、「私はずっと北に魅かれていたのです。だから北についてドキュメンタリーをつくるということは当然のことのように思えましてね」27と表明するように、その憧れがグールドに北方に関する独特の手法を凝らしたラジオドキュメンタリー――対位法的ドキュメンタリーと呼ばれる――『北の理念』28をつくらせたのだ。
『北の理念』のテーマは「孤独」である。そしてここで述べられるそれはいままで述べてきたのとは違い、音楽に対する音楽外的な作用から身を守るための孤独ではなく、まさに自分自身と向き合い、個人というものを陶冶するための孤独という体験であった。
『北の理念』の冒頭でかわされる、グールドによって構成された三人の男女の会話は、北方、北極圏の「土地に魅かれ」訪れた人間が「まったくの孤独」の中で「北と密接につなが」ることによって「北に心から感動し」、「自分たちをもっと懐疑的にみるように」、「マス・メディアの提供するものに疑いを深める」ように、なる。そして自身が「この地方の一部」、「この平和な環境の一部になり切っていること」を思い「これが永遠に終わることのないよう願」うようになるというような、北が「人生を変えた」体験をえがいている29。
しかし、この北という概念はただ単に地理上の方位や緯度を指すのではなく、「孤独」というものを考える際の指標でありメタファーであった。「精神性に限界があるように見えるほかのもろもろの概念や価値の引き立て役として、北、つまり北の理念」30は働く。この「北」が人に関わるプロセスこそが「孤独」と同じであることは、グールドがグールド自身に問うインタビューの中で「スイスのメノナイト派には、緯度が高ければ高いほど俗界からの離脱度が大きいとする一派があ」るというのと同様に「俗界からの離脱度を緯度の高さで測ってい」る、と彼のいったことからも知れるだろう31。
そして北――つまりは孤独――と接触するという生き方は、「その地方の物理現象が創造の機会になることに気づ」かせ、「自分自身の仕事と生活を、その土地のきわめて大きな創造的可能性とひき較べて評価するようにな」ることによって「人々」を「哲学者に」変え32、そしてその「北の理念」という「孤独の状況を考察する」ための「一つの口実」によって、実際に北へ向かうことなしに「想像のなかだけでも」北に触れ、孤独の中に暮らすことができるというのだ33。
そして彼は、『北の理念』に続く孤独をテーマとしたドキュメンタリー作品、『遅れてきた者たち』34と『大地の静かな人々』35を発表、これらは『孤独三部作』と呼ばれている。
『遅れてきた者たち』はニューファンドランドという本土から海によって隔絶された遠隔地で孤立状態のなかに暮らす人達を捉えたものである。このドキュメンタリーにおいて象徴的なのは、この土地に暮らす、「離れたくなったらいつでも離れられる」36と思うことによってこの「何も変わ」37ることのない土地にとどまり、都市や「ますます強制力を増してくる文化環境」38から離れた自然や不便の中に「今まで自分がいたところをいっそうはっきり見」39ようとする人たちが、「自然の力に立ち向かう生活の現実」に彼らの持つ独自の「優雅な音律」――「詩篇を鍛え」られ40、「ひどく濁っている」「本流」41を疑問に思い「個性を善しとみなす時間」42の中に生きることを選択するという点である。
『孤独三部作』の最後の作品となる『大地の静かな人々』は、より孤独というものを濃厚にえがくものとなっている。というのもこのドキュメンタリーのタイトルにもなっている「大地の静かな人々」とよばれるメノナイト派の一派が世間との接触を一切絶つという性格を持っているためだ。しかし多分に漏れずメノナイト派においても変容は起こっており、とりわけ「社会から自己を完全に隔離するという考え方が基盤を失って」きていることに対するドキュメンタリーの登場人物による「この世界によって堕落させられることなく暮らしていくため」に「みずからが良いと考える道を歩むべき」43との見解は、グールドがこの対位法的ドキュメンタリー『孤独三部作』を通じて主張し続けてきた、孤独の中で自身と向き合い自分がどのような人間であるかを知るという試み――個人を陶冶するということ、そのものであるのだ。
まさにグールドはこの『孤独三部作』を通じ、北を目指し、ひどく濁った本流を離れ、そして社会から自己を隔離する試み――つまり孤独に生きることによって、「内的な精神性を高め」44、自らの「精神生活を維持しようと」45する人間像をえがくことによって、個人が個人であるためには孤独を求める必要があるという主張をなしたのだ。
グールドがそのドキュメンタリーの中で主張してきたこととは、孤独という体験が人間の内面性に働きかけ個人を陶冶するということだった。そしてその働きかけの結果生じる境涯を、彼が「二十世紀小説の最高傑作のひとつ」46と評した小説、従弟のジェシー・グレイグに話して聞かせ、自らラジオでも朗読した夏目漱石の『草枕』の中に見出すことができる。
この小説の主人公である画工が「とかくに」「住みにくい」「人の世」47を離れ、「人情世界」48を「解脱」49した「非人情の天地」50を求めたのは、この非人情が「吾人の性情を」「陶冶」51するからであり、そしてなによりもその「人情世界」の軋轢から「拙を守る」52ためであった。
「自然の」「高く塵界を超越し」、「絶対の平等観と無辺際に樹立」する「徳」53の作用により「吾人の性情は」「陶冶され」54、「何にも停滞」することなく「随処に動き去り、任意に作し去」る「完全たる芸術家として存在」55するための基盤となる心を得ることとなる。そしてその境界にさえ到れば、「一枚の画もかか」ずとも「真の画家」56たりえるのだ。この境界に入ることさえかなえば、画工の「和尚さんだって、うつくしいと思っているうちは画工でさあ」57という言葉が示すように、誰もが芸術家たり得るのである。
自然に、非人情によって醸される「放心と無邪気」という「余裕」によって、「文明の潮流」が「芸術の士を駆っ」たために生ずる「如何に相手の瞳子に映ずるか」ばかりを「顧慮」し「芸妓」の「色を売りて、人に媚びる」が如し、「何らの表情をも発揮し得ぬ」58害に堕ちる危険を回避することができるのである。そして、この他人の目を気にするあまり生じる冗舌で軽薄なうわべを捨てた個人は、自らも「鑑賞の上において」「銘」を「さのみ大切のものとは思わない」59気概に達し、「その観方も感じ方も、前人の籬下に立ちて、古来の伝説に支配せられ」60ることなく、「尤も正しくして、尤も美しきものなりとの主張を示す作品」61を創出することを可能にする創造力を身につけるのだ。
同じく漱石の小説『それから』には、「都会」という「人間の展覧会に」おいて「あらゆる美の種類に接触する」ことができるという「権能」を得た「都会人士」が、それら「引力」と出会う「たびごとに、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動か」す「感受性」62が描かれており、これこそは、現在のカタログ的表層的享受の状況にほかならない。しかしこの「論理」63に反し『それから』の主人公、代助の心は「三千代」という一人の女を選ぶのだが、この、相対的な価値に惑うことなく自己に絶対的であるなにかを求めようとする、心の働き、プロセスの延長線上に見出されるものこそはグールドの最終的に求めた音楽との合一――エクスタシーであり、漱石の『草枕』においていう、芸術の境界に到った「彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になる」64というそのことなのである。そしてこの最終的の目標に達するために、「あらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする」「文明」65から離れ、「非人情の天地に逍遥し」66「芸術的の立脚地を得」67んがために「四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住む」68のである。
「孤独な環境におかれたせいで」、人々は「ユニークな洞察に満ちあふれている」「創造的な聴き手」69となり「最良の状態で」の「聴くという行為」のなかに「自己陶酔」70を得る。自然、非人情のうちに逍遥することにより、人々は「美的生活」71に住来することを可能にするのである。
1 アルフレッド・ベスター「おどけた天才――グレン・グールドのポートレート」小倉眞理訳,「グレン・グールド[改訂版]」,『WAVE』第37号,1993年,24頁。
2 宮澤淳一「ハイメ・ラレード、わが友グールドを語る」,WAVE編『グレン・グールド』(東京:WAVE,ペヨトル工房,1989年)所収【,19頁】。
3 ジェフリー・ペイザント『グレン・グールド――なぜコンサートを開かないか』木村英二訳(東京:音楽之友社,1981年),183頁。
4 エリス・マック「グレン・グールド」井口百合香訳,『ピアニストは語る』(東京:音楽之友社,1985年),181頁。
オットー・フリードリック『グレン・グールドの生涯』宮澤淳一訳(東京:リブロポート,1992年),128頁。
ジョナサン・コット『グレン・グールドとの対話』高島誠訳(東京:晶文社,1990年),130頁。
6 朝比奈隆「グールドの思い出」,『WAVE』第37号,142-144頁。
11 グレン・グールド「グレン・グールド、グレン・グールドについてグレン・グールドにきく」野水瑞穂訳,ティム・ペイジ編 『グレン・グールド著作集2――パフォーマンスとメディア』(東京:みすず書房,1990年)所収【,119-123頁】。
15 グレン・グールド「拍手喝采おことわり!」野水瑞穂訳, 『グレン・グールド著作集2』所収【,11頁】。
Glenn Gould, "Let's Ban Applause!," in The Glenn Gould reader, edited by Tim Page, (London: Faber & Faber, 1984) [, p. 248].
20 グレン・グールド「レコーディングの将来」野水瑞穂訳, 『グレン・グールド著作集2』所収【,153頁】。
原文は以下のとおり:
The purpose of art is not the release of a momentary ejection of adrenaline but is, rather, the gradual, life-long construction of a state of wonder and serenity. (Glenn Gould, "Let's Ban Applause!," in The Glenn Gould reader, edited by Tim Page, (London: Faber & Faber, 1984) [, p. 246].)
27 グレン・グールド「音楽としてのラジオ――グレン・グールド、ジョン・ジェソップと語る」野水瑞穂訳, 『グレン・グールド著作集2』所収【,203頁】。
29 グレン・グールド「「北の理念」から、プロローグ」野水瑞穂訳, 『グレン・グールド著作集2』所収【,224-227頁】。
グレン・グールド「グレン・グールド・ファンタジー」奥田恵二訳,グレン・グールド『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』(ソニー・ミュージックエンターテイメント SRCR 2289-90,CD,[1998年]),別冊解説書,40-42頁。
30 グレン・グールド「「北の理念」によせて」野水瑞穂訳, 『グレン・グールド著作集2』所収【,228-229頁】。
31 グールド「グレン・グールド、グレン・グールドについてグレン・グールドにきく」,前掲,132頁。
38 グレン・グールド「「遅れてきた人たち」によせて」野水瑞穂訳, 『グレン・グールド著作集2』所収【,234頁】。
40 グールド「「遅れてきた人たち」によせて」,前掲,234頁。
43 ジョン・P・L・ロバーツ「対位法的ラジオ・ドキュメンタリー《孤独三部作》」宮澤淳一訳,ギレーヌ・ゲルタン編『グレン・グールド 複数の肖像』(東京:立風書房,1991年)所収【,209頁】。
46 宮澤淳一「グレン・グールド バイオグラフィカル・スケッチ」,『グレン・グールド大研究』〈大研究〉シリーズ2(東京:春秋社,1991年)所収【,302頁】。
47 夏目漱石『草枕』(東京:岩波文庫,1990年),7頁。
62 夏目漱石『それから』(東京:岩波文庫,1989年)176頁。
69 グレン・グールド「ぼくにとってレコーディングとは何か」サダコ・グエン訳,『グレン・グールド大研究』所収【,120-121頁】。